作家紹介(7)/「その場所」に批評させること/藤田直哉「ザクティ革命」『シリーズ 10年代の光と闇』

文責:佐々木友輔


 SF・文芸を中心として批評・評論活動を行っている藤田直哉が、2008年に『東浩紀ゼロアカ道場』を機にスタートした映像による批評活動/作品が「ザクティ革命」である。これは、作家や批評家への突撃取材やイベント後の打ち上げの様子をXacti(ザクティ)と呼ばれるビデオカメラで撮影し、ニコニコ動画youtubeなどの動画共有サイトにアップするもので、ほぼ無編集の映像、ぐだぐだ感の漂う会話のやりとりは、ネット上を中心に大きな話題となった。もちろん、藤田が映像の中で見せる分かりやすく不真面目な態度は多くの反感も買ったが、結果的には、この翌年頃から盛り上がりを見せることになるustreamニコニコ生放送による映像のリアルタイム配信、さらには飲み会や自宅での独り言を延々と中継する「ダダ漏れ」の流行の、先駆けとなる活動となったとも言えるだろう。
 私が彼の活動に注目するきっかけとなったのは、『社会は存在しない』所収の論考「セカイ系の終わりなき終わらなさ――佐藤友哉『世界の終わりの終わり』前後について」である。彼のこの著作を私は、セカイ系佐藤友哉を通して北海道の地方都市・郊外都市の問題を取り上げた、ひとつの場所論として読んだ(本論考の遠藤祐輔の項などを参照)。自身の郊外都市での生活体験に裏打ちされたその眼差しは、時にシニカルでありながらも、ただ否定的な言葉を並べて終わるのではなく、そこからうまれる表現や想像力を見出し、その可能性を問おうとする姿勢に貫かれている。


 藤田がfloating viewに出品したザクティ動画の新作『シリーズ 10年代の光と闇』シリーズは、第一回「ヤマダ電機LABI」では、郊外型電気店のケーズ電機と都内に進出したヤマダ電機LABIの比較を行い、第二回「ショッピングモーライゼーション」では、小山遊園地跡に出来たショッピングモールへと取材に赴くなど、展覧会のテーマである郊外的環境の象徴であるような場所に、より焦点を合わせた内容になっている。
 技法的な面から観ると、この作品には大きく分けて3つの要素が混ぜ合わせられている。ひとつは、ザクティというビデオカメラのスペックに従って即物的に撮られた、電気店やショッピングモールなど彼の批評の対象となるものの映像。先述したようにほぼ無編集で、ノイズなども取り除かれずにそのまま残っている。ふたつめは、そこで撮っている対象について、過去に語られた批評の言説を紹介したり、引用したりする藤田の語り。第一回では、これまでの郊外論で語られてきたテンプレートや、floating viewのステイトメントにも書かれている「都市の郊外化」について語り、第二回では、『思想地図β』vol.1で掲げられたテーマである「ショッピングモーライゼーション」についての紹介や、舞台となる小山遊園地跡についてのwikipediaの項目の引用が為される。そして三つめは、藤田自身の率直なリアクション。彼はその場で感じたことをとりあえず言葉に出してみる。既存の郊外論と実際とのギャップに疑問を呈したり、あまりに身も蓋もない(語りようのない)風景に対して何も言葉が出せずに立ちすくむ姿まで、彼は自らの感情の変化や戸惑いまで含めて、隠さずにビデオカメラの前に晒してみせる。


 当然のことながら、ある言説と、その対象との間には埋めがたいズレがある。酒鬼薔薇事件の少年Aが住んでいた郊外住宅地が、まさに犯罪の温床であるような不気味な場所として語られたり、そう見えるようにフレーミングされて全国のお茶の間にニュースとして報道されたり、といったように。実際にその場所に訪れてみると、聞いていたのとはまったく違う風景が広がっているということは決して珍しいことではない。特に郊外という場所は、そのような先入観や刷り込みによる誹謗中傷に晒されることの多い場所だった。
 藤田の映像は、そのような言説と対象とのズレを顕在化する。先ほどの三つの分類で言えば、ひとつめの「対象となる場所の映像」とふたつめの「既存の言説」を、ひとつの映像作品の上、同じまな板の上に乗せることで、その言説の妥当性、両者の距離感やズレが身も蓋もなく露呈するのだ。それはあたかも、一方的に批評の対象となってきた「その場所」が、自らへの批評に対して反論している、もしくは逆批評を仕掛けているようにも見える。偏った思想やリサーチ不足によって強くバイアスの掛かった言説や批評は、「その場所」からの反撃によってすぐさま崩れ去り、吹き飛んでしまうだろう。


 もちろん藤田は、この試みによって言説の無力さを突きつけようとしているのではない。彼が行おうとするのはむしろより厳密な言説の妥当性の検証であり、よりリアルな批評の言葉の探求である。
 彼は、時にはレフェリーとして、時には実況・解説者として、「ある場所(もの)を批評すること」と「その場所に批評させること」との間で繰り広げられるゲームの進行を取りまとめる。即興で言葉を紡ぎ、自らの身振りや戸惑いも含めて、様々な手を尽くして、両者の間の距離を見極めていく。しかし彼は、そのようにして見つけたズレや溝を埋めるのではない。溝があること自体をありのままに記録することで、若林幹夫の言う、「神話と現実」の双方を持った重層的な場所のあり方を視覚化するのだ。これは、私が映画『夢ばかり、眠りはない』で行った、秋葉原通り魔事件に対する言説の朗読と実際の秋葉原という場所の映像をかさね合わせていく試みや、川部良太が行っている、架空の事件の記憶や実際に団地に住む人びとの記憶など複数の「あいだ」にうまれる磁場を映画というハコにパッケージングする試みとも、ある種のシンクロを見せているように思える。
 藤田は、映像だからこそ出来る批評の方法を発見し、実践している。それは彼の本業である論考執筆を補完する重要な仕事のひとつである。映像とテキストの双方を見なければ、彼の「場所」への考え方の全体像は見えてこないだろう。

作家紹介(6)/記憶のハコとしての団地・ヴォイド空間・映画/川部良太『ここにいることの記憶』『そこにあるあいだ』

文責:佐々木友輔


 2007年に制作された川部良太の映画『ここにいることの記憶』の舞台は、希望ヶ丘と呼ばれる団地である。10年前にそこで行方不明になった当時12歳の少年<カワベリョウタ>についての記憶が、現在の団地の風景の中で、住人の朗読によって語られる。
 失踪した少年の名前からも分かるように、これは架空の物語であり、フェイクドキュメンタリーの一種であるとも言えるだろう。しかしこのような手法を用いることによって彼が試みようとするのは、映画にリアリティーを持ち込むためでもなければ、フィクションとノンフィクションの境界を曖昧にして攪乱するためでもない。私にはこの映画は、純然たるドキュメンタリー映画であるように思える——ある場所の在り方についてのドキュメンタリーに。


 映画の中で語られる少年に関する記憶は、個別的なものであるというよりは抽象的で、誰もが既視感を持つような物語である。失踪事件の真相に近づくような話、事態に進展をもたらすような話も最後まで出てこない。情報は断片的で、皆がカワベリョウタについて語っているのにも関わらず、その少年の実像は一向に見えてこない。
 その代わりに浮かび上がってくるのは、舞台となる団地の風景や、そこで暮らす人びとの営みだ。実際の団地の住人——トレーニングされていないまったくの素人による朗読は、そこで発せられている言葉の意味内容以上に、その声、その表情が強く印象に残る。また同時に、その人が朗読用の原稿を持って佇む風景、その場所が前面にせり出してきて、私たちの目に焼き付けられる。おそらく少年はマクガフィンのようなものなのだろう。架空の少年を語るという行為をきっかけとして、それに触発され、話者それぞれの記憶が混ざり合い、かさなり合い、誰のものでもなく同時に誰のものでもあるような記憶の群れが形成されるのだ。そして、こうしてうまれた集合的な記憶とは、場所の記憶、より具体的にいえばその団地の記憶に他ならない。
 画一的な部屋が積み重なる団地の風景を川部は、引きのショットを多用しつつ、グリッド状に展開する奥行きのある空間として捉えていく。両サイド、そして画面奥の突き当たりと、団地に囲まれた画面構成は、その場所がまさに「家族を容れるハコ」であることを物語っているようだ。架空の少年を起点として集められた、そのままではまだおぼろげで未定型な記憶の群れは、この、団地という容器の中に収められることで初めてかたちを持つ。団地の枠組みは同時に映画『ここにいることの記憶』の枠組みにもなっている。


 2008年制作の映画『そこにあるあいだ』では、2組の兄弟についての物語が語られる。ひとつは、再婚する母親の結婚式のために東京から実家のある山梨へと車で向かう兄弟の物語。もうひとつは、祖母の入院をきっかけとして12年ぶりに再会する兄弟の物語である。
 『ここにいることの記憶』において、様々な記憶や物語、人びとを結びつけていた少年というひとつの点は、この映画では複数化し、より複雑になっている。ひとつの映画の中で、交わることのない2つの物語が同時に進行すること。実際に兄弟でもある2人の役者が、2組の兄弟役を演じていること。東京と山梨という2つの場所を往来すること——。このように作中には対となる要素が数多く盛り込まれ、タイトルの通り、対の数だけ「そこにあるあいだ」がうまれる。複数の「あいだ」をかさね合わせていくその方法論は、『ここにいることの記憶』以上に、映画を空間的に構成する意識が高まっていることを感じさせる。

バイパス的郊外には歴史を含めてやっぱり何もないと思う。ただ、人間は何もないなら、何もない風景に浸透される。何もない風景と近しい感覚になった存在は、近しくならない存在には見ることが出来ない主観的風景を見ることができる。
(floating viewカタログ所収「風景と体温を合わせて撮る」より 宮台真司の発言)


 『ここにあることの記憶』において団地が果たしていたハコの役割は、『そこにあるあいだ』では、アイ・ウェイウェイが『暫定的な風景』で捉えているような広大なヴォイド空間が担っている。土手沿いの高架橋の下。マンションの手前に広がる空き地。廃墟となったパチンコ屋の駐車場——。日本では、郊外都市や地方の町でよく見かける景色である。それは一見、つまらない、文字通りヴォイド(空)で何もない空間に見えるかもしれない。
 しかし川部は、そのようなヴォイド空間だからこそうまれる記憶や、形成される磁場があることを知っているのだろう。彼、いや現代に生きる私たちの多くは、宮台の言うように「何もない風景と近しい感覚になった存在」であり、ヴォイド空間や団地を主観的風景として眺め、固有の記憶や物語を見出している。川部良太が試みているのは、このような空の(ように見える)容器としての場所に次第に流れ込み、満ちていく記憶や物語を可視化することなのだ。
 川部の映画の特徴である、綿密にロケハンによって決められた構図、フィックスショットでじっくりと粘り強く撮られたショットは、観客自身が持つ記憶や感情が、このヴォイド空間に浸透し、充満するのを待っているかのようである。そのがらんとした空間を眺めながら私たちは、その空きの部分に自らの記憶を注ぎ込み、映画を補完していく。作中に登場する場所や人びとの記憶、作者である川部自身の記憶、そして観客の記憶がハコ=映画に容れられて、現代、私たちが生きている場所の在り方についてのドキュメンタリーが完成するのだ。


 川部は、同じfloating viewの出品作家の中でも、遠藤や佐々木のように「速度存在」として郊外を捉える方法とはまったく別のアプローチ——団地やヴォイド空間をハコとして、映画をハコとして用いること——で、容易には捉えがたい郊外的環境という場所のあり方、そこで暮らす人びとの生のあり方を見出している。それぞれの作家の作品を通して観ることで、より重層的で、厚みのある郊外の姿を捉えることが出来るのではないだろうか。

作家紹介(5)/猥雑で危険なセカイ/遠藤祐輔 blog「finalfilm」etc.

文責:佐々木友輔


 郊外の風景を写真に収めようとする時、どのような方法があるだろうか。まず思いつくのは、「危ない郊外」を捉えた一連の作品群であろう。郊外型住宅や団地に暮らす幸福な家族というイメージの裏には、画一的で個性のない生活があり、犯罪が多発する危険な場所であるとする見方である。そこでは郊外を得体の知れない他者として捉え、郊外型都市計画の見直し、あるいはその外側にあるより良い場所への脱出を促すのだ。
 それに続いて思い出すのは、ホンマタカシの『東京郊外 TOKYO SUBURBIA』に代表されるような、郊外のありふれた風景をニュートラルに受け止める視点である。郊外に対する過度に露悪的な意味付けや物語化を退け、即物的にそこにある建築物や、そこで暮らす人びとの生活にカメラを向ける。これは、「日常としての郊外」を捉える試みだと言えるだろう。


 では、floating viewで唯一写真作品を出品している遠藤祐輔はどうだろうか? 彼の写真にも、ある種の不穏さがある。展覧会場に横一列に並べられた約80枚の写真には、群衆が何かを不安げに見つめる姿や、うずくまる老人、公園の茂みの中へと足を踏み入れるサラリーマンなど、奇妙な行動をとる人の姿が捉えられている。それは日常の風景が非日常に変質する直前、あるいは瞬間のようであり、その後そこで何か大きな事件が起こりそうな気配が充満している。
 しかし、その不穏さはすぐさま「危ない郊外」的な批判には結びつかない。遠藤は、「危険」であり同時に「日常」であるその風景に愛憎の入り交じった目を向ける。彼は郊外独特の不穏さそれ自体に、ある親密さを見出している。彼にとって、郊外はそのまま世界(セカイ)であり、どこまで行っても逃れられないものであると同時に、代わりの効かない故郷のような場所でもあるのだ。


 また彼の写真には、「危ない郊外」や「日常としての郊外」を捉える郊外写真とは別の文脈が差し挟まれている。それは、新世紀エヴァンゲリオンを嚆矢として、90年代中頃から登場し00年代初頭にそう呼ばれるようになった「セカイ系」と呼ばれる一連の作品群の系譜である。

東京が焼け野原になってしまって、化学物質による汚染のため今後300年は立ち入り禁止になってしまったらしい。
東京以外の主要都市もほとんどが壊滅状態で、残ったのは郊外だけだった。
郊外というテーマを与えられて、久しぶりに写真を撮ろうとしていた矢先。
セカイはすべて郊外だけになってしまった。
あの日。紙一重の所で、僕はこの戦争を回避していた。
いつもだったら豊洲からお台場辺りで釣りをしていたのだけれども、水面が鏡のようで生命感がなく荒川中流域に自転車を漕いだ。
赤羽側で釣りを開始しようとしたら、いいポイントに先行者がいたので仕方なく埼玉側で釣りをしていた。
釣りに夢中になっていた僕はそれをずっと朝陽だと思っていたんだ。
対岸の釣り人は燃えていた。
明日は横浜で仕事だ。
首都機能が移転された横浜みなとみらいは厳戒態勢らしい。
(遠藤祐輔blog「finalfilm」より 2010-11-11「東京湾奥デバックルーム晩秋」)


 戦争、自転車、ボクとキミ、郊外、高い空、茫漠と広がる街の景色——。彼の写真、そして彼の作品タイトルや写真に添えられるテキストには、いわゆるセカイ系的なモチーフが無数に登場する。しかし彼は、多くの影響を受けていることは確かであるにせよ、自らの作品やテキストをセカイ系であると位置づけているわけでもなければ、それらの作品群を殊更に意識して制作をしているわけでもないと言う。では、遠藤自身が持つ問題意識とセカイ系とがシンクロするのはなぜだろうか。
 先述(カタログ掲載予定の論考)したように、藤田直哉セカイ系の作品の多くが北海道のニュータウンの風景を舞台にしていると指摘しているが、彼の言う「セカイ系の典型的なイメージと言える、平坦な地面に広い空という景色のある場所」は、そのまま典型的な郊外の風景のイメージであるとも言える。これは、セカイ系が郊外という舞台を必要としたというよりもむしろ、郊外的環境がセカイ系という物語構造を生みだしたということを意味しないだろうか。郊外における共同幻想、郊外における都市伝説としてのセカイ系——。遠藤は、セカイ系的想像力がうまれる現場、そのような物語がうまれる未然の気配を見つけ出し、カメラに収めている。

透明な宇宙人は、近代のインテリゲンツィアたちが盛んに言葉遊びをしてきた、神なるもの、プゥンクトゥム、イノセンス、アート、クオリアエーテルリリィ・シュシュジミ・ヘンドリックスフェンダー・ローズ、1959年製レスポール相対性理論テロリズム、アミニズム、愛、印象派、萌え、マトリックス、幽霊、妖精、鬼、尾崎豊山田かまち王蟲、トトロ、セカイ、社会ではないもの、そうしたものと同義の、衰退した言葉の成れの果てのことだ。名前をかえて姿をくらましつづけ、新しい名前とともに時代を煽動し、風化する直前にまた違う名の元に輪廻する。そういった不定形な未分類なものを撮る、行為こそ写真だと信じていた。
(遠藤祐輔blog「finalfilm」 2011-2-18「トキガタタネバナニモワカラナイ」より)


 遠藤が言うように、セカイ系は「名前をかえて姿をくらましつづけ、新しい名前とともに時代を煽動し、風化する直前にまた違う名の元に輪廻する」もののひとつに過ぎないのだろう。実際、セカイ系そのものの流行が過ぎ去った後も、そこからうまれた想像力は次代の作品や作家に様々なかたちで受け継がれている。それを郊外からうまれた想像力であると考えるならば、もはや「何もない」ことから出発する郊外観を語ることは出来ない。
 そもそも、「何もない郊外」や「危ない郊外」という言説から生まれた無数の作品群は——たとえそれが郊外を否定的に捉えるものであっても——その場所が作家たちの想像力をかき立てる危険な魅力を本来的に持っていたことを伝えている。郊外は、60年代から70年代にかけてアングラ文化が隆盛を極めた新宿や、90年代から00年代にオタク文化が花開いた秋葉原などと並べて語るべき、猥雑で危険なエネルギーに満ちた場所なのである。


 では、このような見方が今まで現れてこなかったのはなぜだろうか。石塚つばさは、郊外という場所の広大さに原因があるのではないかと述べている。確かに新宿や秋葉原などの都市であれば、狭い区域内に文化施設が密集し、作家同士の距離も近いので、その文化的状況を体感するのが容易である。それに対して郊外のだだっ広い空間では、作家も施設も偏在しており、そこで起きていることの全体が見通しづらい。
 その距離を、遠藤は持ち前の体力と機動力で埋め合わせる。遠距離を自転車で駆け回り、膨大な数のシャッターを切る。速度存在として、「時間的な隔たりや空間的な隔たりをないものにして縦横無尽に運動する」(丸田一)ことで彼は、空間的な広がりの中に拡散してしまっている郊外の可能性をかき集め、圧縮して提示してみせるのだ。彼が、blogでもギャラリーでの展示でも、あるまとまった量の連作として作品を発表するのはそのためである。ある地点に留まり、一枚の写真を撮るだけでは足りない。茫漠とした空間ひたすらに彷徨い歩き、シャッターを切り続けることで初めて、その場所は魅惑的で危険な香りの漂うワンダーランドとして現れてくる。


 私が郊外をテーマとして制作や企画を行うようになったのも、遠藤の写真がきっかけである。郊外を撮った写真は無数にあるが、作家の想像力を刺激して止まない郊外、新たな表現がうまれる源泉としての郊外の可能性を感じさせてくれるのは、彼の写真をおいて他にない。

作家紹介(4)/地図の詩、空間の詩/ni_ka「blog詩」「AR詩」

文責:佐々木友輔


 フリーライター速水健朗による『ケータイ小説的。”再ヤンキー化”時代の少女たち』は、ケータイ小説の主な購買層が郊外に住む少女たちであり、物語の舞台も多くが郊外都市であることから、自ずと郊外文学論としての性格も帯びた著作であるが、そこで速水は、「都市・オタク・少年」というキーワードに対して、「郊外・ヤンキー・少女」(浜崎あゆみ、ヤンキー系少女漫画、ケータイ小説などが想定されている)は、その市場規模の大きさにも関わらず、批評の対象としては極めて軽んじられている「被差別文化」であると述べている。
 実際、一時期国内で大きな盛り上がりを見せたケータイ小説についても、社会学的観点、心理学的観点からの考察が行われることはあっても、表現論や作家論にまで踏み込んだ論考はいほとんど現れなかった。それは結局、今でも、ある時代の流行、社会現象以上のものとは認められていないのだ。村上隆らによってオタク文化がアートの文脈に乗せられ、芸術表現として広く認知されたのとはあまりに対照的である。


 こうした「郊外・ヤンキー・少女」的なものに、批評的な意識を持って介入し、現象ではなくひとつの芸術表現として打ち出そうとしているのが、詩人のni_kaだ。
 彼女は主にブログ上で、絵文字や顔文字、デコメールを用いたり、いわゆるフォント弄り(フォントサイズやカラーを変えたり、太字で表示させるなどの文章表現)を駆使した詩や小説を発表している。ケータイ小説や、女子高生の携帯メール、あるいはmixiのような土着的なSNSなどで、日々膨大に書き連ねられ、内輪だけで消費されていく言葉たち、その文体を抽出し、現代詩の文脈に引き寄せながら、新たな詩のあり方を探る試みである。特に2009年初頭の『 あ、ちぽ人生 』や『 失恋マンションと空中浮遊あたしにか 』の頃から顕著になった、絵文字を大量に用いた表現は、もちろん歴史的には具体詩や視覚詩の系譜に位置づけられるのだろうが、インターネットやウェブという情報環境と結びついたことで、これまでになかった視覚体験がうまれている。


 彼女のblog詩は、私たちの視覚に対して非常に複雑な運動を要求する。横書きのテキストを読むために、左から右へと視線を動かして文字をなぞる運動。縦長のレイアウトのblogを読み進めるために、画面を上下にスクロールする運動。テキストを読む流れを遮るように、時に散らばり、時に密集してこちらの気を惹く絵文字たち。絵文字の中にはgifアニメになっているものもあり、異なる速度、異なるリズムで姿かたちを変えていく。そして上下左右、斜めと、視線の動きや画面全体のスクロールの重力から逃れて自在に移動していくテキストと絵文字は、彼女が詩の中で繰り返し用いる表現の通り、まさに画面の中を「浮遊」しているように見える。
 一般的なテキストのように単線的に進むのでもなければ、ハイパーリンク的に複数のページを飛び越えていくのでもなく、そうかと言って、ひとつのページ内をどこからでも好きに読み進めて良いというわけでもない。横書きのテキストを読む視線の動きを土台としながらも、同時に、それとは異なる複数の視線の動きを要請されるのである。彼女は視線の攪乱によって、新たな「読み」のリズムをつくりだしている。


 また、もうひとつ別の側面からni_kaの詩を考えてみたい。絵文字や顔文字は、他の誰かによって描かれたイラストであり、著作物である。それを用いて詩を書くことは、文学における「引用」というよりも、絵画などの平面作品における「コラージュ」の感覚に近い。同様に、テキストのフォントもまた誰かによってデザインされた著作物であることを考えれば、彼女の詩は、一種のコラージュ作品として見ることも出来る。
 そのようにして見た場合にまず気がつくのは、中心の不在と、全体像を見渡すことの困難である。絵文字は、中には例外的なものもあるが、基本的にはフォントの標準サイズ(8pt〜10pt)に合わせてデザインされており、自由に拡大縮小をすることが出来ない。よって必然的に、詩の中に登場する絵文字は、単独では画面いっぱいに広がるようなダイナミズムを生みださない。同じ絵文字、あるいはいくつかの絵文字の組み合わせを大量に並べることで画面上にまとまったひとかたまりをつくることは出来るが、それが象徴性・中心性を持つまでには至らないのだ。そもそも、テキストを読むことが前提であり、縦長のデザインで上下にスクロールしていくblogの画面構成は、画面全体を見渡すような視点を想定していない。彼女は、一般的な詩の形式から離れて限りなく絵画に接近しつつも、その絵画的な見方に対しても一定の距離を置いているように思える。
 私は、ni_kaの詩は絵画的な見方よりもむしろ、テキストや記号を空間的に配置する地図的な「読み」を要請しているのではないかと考えている。絵文字や記号のコラージュ・配置による疎密がモニタ上に図と地をつくり、テキストは道路として、読みの方向を指定することで、矢印などの記号と共に視線の交通整理を行う。それは、ただテキストを用いて空間構成をするだけではない、経路情報付きの地図である。情報環境から現れた新しい表象や「郊外・ヤンキー・少女」的なものを詩に持ち込むという試みの裏側で、彼女は、地図的・地理的な空間性を詩に持ち込むというもうひとつの試みを進めているのではないだろうか。


 この、ni_kaの空間への感性が、AR(拡張現実)というテクノロジーと結びつくことは自然なことだろう。彼女がセカイカメラを用いて展開する「AR詩」は、floating viewの会場であるトーキョーワンダーサイト本郷から最寄り駅(水道橋駅お茶の水駅)までのルート上に、短いテキストや作家自身の朗読の音声、ハローキティーの画像などを貼り付けたエアタグを無数に浮かばせるというもので、まさに、詩を現実空間上に配置する試みである。
 AR詩では、通常の詩やblogのように、定められた出発点がない。鑑賞者がスマートフォンセカイカメラを起動させたところが詩の始まりとなり、アプリケーションを終了したところで詩も終わりを迎える。とは言え、鑑賞者に大きな自由が与えられているわけではなく、むしろ制約の多さを感じるかもしれない。blog詩における「読み」の方法、つまり視線の移動は、AR詩では鑑賞者の歩行に置き換わる。そのため、どのような順序でエアタグに乗せられた言葉を読んでいくかは、自ずと現実空間の地理や交通ルールに従うことになるだろう。ここでは、エアタグがAR空間上の地理をかたちづくり、現実空間の地理が「読み」のリズムを生みだしているのだ。
 さらに言えば、そもそもこのAR詩は、エアタグが浮かんでいる場所——今回であれば東京都の本郷——を訪れなければ鑑賞することが出来ない。しかしni_kaは、情報環境上にありながら現実空間の強い制約を受けるというARの特性を欠点と見なすのではなく、むしろそれを活かして表現の核心へと転じさせる。
 floating viewの会期中に起こった東北地方太平洋沖地震を受けて制作された『2011年3月11日へ向けて、わた詩は浮遊する From東京』で彼女は、東京という自身の居る場所から、声を届けることも、安否を確認することも出来ない東北地方の人びとに向けて、詩というメッセージを発する。その場に来なければ読むことが出来ず、スマートフォンを通して見なければ何も見えない、限りなく弱々しく、限りなく透明なその言葉たちは、情報環境がどれだけ発達しても埋めることの出来ない距離を、東京の本郷と東北の海という現実空間の埋められない距離を強く感じさせると同時に、その距離を前にして無力感を感じつつも、それでもなお何かしら言葉を紡ごうとする人びとの心象を見事に視覚化している。
 この詩が本当の意味で実を結ぶのはもう少し先のことになるだろう。復興が進んで震災が「記憶」となり、リアルタイムで感じていた「今」の感情が風化してしまっても、本郷に行きセカイカメラを起動すれば、AR空間上にはまだその「今」が浮かんでいる。その、ささやかなモニュメントから私たちは何を感じることが出来るだろうか。

作家紹介(3)/生の論理についてのドキュメンタリー/田代未来子 blog「み」

文責:佐々木友輔


 田代未来子がfloating viewに出品したのは、大学在籍時からブログ上に書き貯めてきた日記である。それは、文字通りの意味での「日記」であり、決して「作品」のつもりで書いたものではないと彼女自身が明言している。私はそのテキストに以前から注目しており、ぜひこの機会に「作品」として紹介したいと依頼した。そして、これがあくまで「日記」として書かれたものであるということと、出品の経緯を明示することを条件に、彼女の展覧会への参加が実現した。
 郊外というテーマを意識的に扱っているのでも、直接郊外の風景が描かれたりしているのでもない彼女のテキストに対して私が期待したのは、これまでの郊外論がつくりあげてきた「何もない郊外」や「つまらない郊外」といった先入観を覆す視点、さらには、floating viewにおいて新たにつくりあげようとしている郊外観にも釘を刺す視点を、展覧会の内に持ち込むことである。情報環境の風土性やAR(拡張現実)、アーキテクチャといったキーワードが並ぶfloating viewは、その性質上、ともすれば「個人」という単位を軽視しがちになる。しかし繰り返し強調するが、郊外とはまず第一に人びとが住む場所なのであり、個人の生活という視点を抜きにして語ることは出来ない。 blog上の日記という形式で書かれた彼女のテキストは、この点を補完してくれる。情報環境と密接に関わりつつも独立して駆動する個人の生の論理、生の強度を私たちに教えてくれるのだ。

コンクリートの床の上に大きな花柄の黒い塊が2つある、あるね、あるねえ。
ぐしゅぐしゅと踏み込んで床のひびの間に隠してやりたい、地中で生きればいいんだよ。
寄り添って、生きればいいんだよ。
きっときれいに生きるんでしょう。
楽しく暮らすんでしょう。
あたしは地上で日焼けして汗をかく。
ずっと何かを根に持ったりして。
にたにたして。
雲丹食べて、
(『らいおんがにゃあと泣きゃっとJune 06 [Sat], 2009, 1:35』)

右を下にして目をつぶってベッドに付いた右こめかみ右頬右顎右肩
右腕右肘右手首右小指右腰右腿右膝右くるぶし右小指
から退化してベッドと一体化。
ベッドごとゆきます。水色の星柄の袖と肩と、花柄の掛け布団!
ミントアイス色のぬいぐるみとアップルまーくののーとPC。
蓋が取れた鏡。
ぬいぐるみだけは一緒に一体化するか、しないならソファの上に避けて
あとは乗っけたまま葬儀。
(『同じ毎日 July 10 [Fri], 2009, 10:58』より抜粋)


 彼女のテキストは、一読しただけでは、シュールな言葉遊びにしか見えないかもしれない。しかし注意深く読み込んでみると、実はそこに書かれているのはほとんどが彼女の見たもの、触れたものの即物的な羅列であり、妄想や空想によって生みだされた事物はほとんど登場しないことに気づく。行間に時折挟まれる彼女自身の感情描写も簡潔で、余計な装飾は施されていない。おそらく彼女は、何ら比喩的な意味ではなく「大きな花柄の黒い塊」を実際に目にして、「にたにたして」、「雲丹」を食べた。「水色の星柄の袖と肩」も「花柄の掛け布団」も「ミントアイス色のぬいぐるみ」も、脳内で作り出したファンタジーではなく、「アップルまーくののーとPC」と同様に、彼女を取り囲む現実空間の描写なのだろう。それは精緻な観察に基づいた、彼女独自の論理に支えられた日々の記録(まさに「日記」)であり、出来事や感情の再構成によって形づくられた言葉のヒトカタマリなのである。テキスト全体に溢れる豊かな色彩とガーリーな印象は、いわゆる「内面」描写なのではなく、彼女を取り囲む環境がそのようなものとしてあるということなのかもしれない。


 私は以前、アントニオ・ネグリの来日(実現はしなかったが)に合わせて企画した上映展「眼差しの反転——その痕跡と兆し」(東京芸術大学上野校地、2008)において、「特異的凡庸」というキーワードの元に、あまり上映される機会のないホームムービーや日記映画、ドキュメンタリー映画を紹介するプログラムを組んだ。特異的凡庸とは、微細な、だが確かに存在し、矯正することの出来ない、他者とのズレのことである。それは日常生活に支障を来すこともあるが、社会生活から逸脱してしまうほどではなく、時折少し不便というほどのものであり、大抵は誤差の範囲として処理出来るものである。マイノリティー運動などに結びつくこともない(あるいは、些細なマイノリティー性、見えないマイノリティー性が、特異的凡庸なのだと言うことも出来るかもしれない)。しかし、そのような身体や精神の融通の利かなさが、その人の行動様式を変える。人より曲げられない関節や、歩行時の足運びの癖や、止められない習慣や癖が、その人の思考様式を決定する。ホームムービーやドキュメンタリーで頻繁に用いられる手持ちカメラによる手ブレ映像には、映画本筋の大きな流れとは独立して動くもうひとつの物語、もうひとつの映画が刻印されている——たとえそれがフェイクドキュメンタリーであっても。複数の被写体を前にして見せる戸惑いや、判断の迷い、カメラの荷重による手の震えや撮影技術の手癖が描き出す、撮影者その人についてのドキュメンタリー映画が、本編の裡に隠されているのだ。


 そして田代は、私の知る限りこの特異的凡庸性を最も明確なかたちで表している作家である。彼女は日記を書くことによって、自らを、「田代未来子」というひとりの人間を記録している。ただしそれは、彼女の感情や内面(コンテンツ)、日々の出来事の記録であるに留まらない。そこには、彼女の論理、思考形式(アーキテクチャ)が記録されている。
 何があって書いたのか。何を意図して書いたのか。そのような謎解きや心理学的解釈をこのテキストに対して行うことには意味がない。彼女は、自身が言うように「普通のこと」「当たり前のこと」を即物的に書き記しているに過ぎず、物語内容だけを追っても、そこにはひとりの女性が書いた私的な覚書があるだけだ。このテキストに隠されているものは何もない。私たちが読むべきなのは、彼女の思考がどのような道を辿ってきたのかということである。
 彼女が感受した情報は、独自の論理に従って、色彩に変換されたり、並び替えられたり、グループ分けされたりする。その独特な変換や組み替えの規則性は、彼女の厳密な言葉の選択と使用によって言語(日本語)に翻訳される。そうして出来上がったテキストは、彼女の思考形式が演算した結果であるに留まらず、その思考形式そのもののかたちを表した構造物として現れてくる。
 この構造物を読むという体験は、私たちに多くの「気づき」をもたらしてくれるだろう。自分のまだ知らない論理で動く世界があるということへの「気づき」を。物語内容としては、ある意味で凡庸ですらある「当たり前のこと」に至るまでにも、どれだけ多くの道筋があるのか、どれだけ豊かな可能性に開かれているのかということへの「気づき」を。そして私たちは、自ずと「当たり前のこと」が本当に当たり前のことなのかを疑うことになる。それは本当に同じ結論なのか。他人のそら似ではないのか。私たちはそこにあるはずの差異を四捨五入して、大雑把な要約をした上で、多様な物事をすべて「同じもの」として乱暴に扱ってきただけなのではないか、と。


 私は、自分が何かを言わなければならない時、大きな決断を迫られた時はいつも、彼女のテキストについて考える。彼女の言葉はそれを聞く者を謙虚な気持ちにさせる。様々な例外を括弧の中に入れ、情報を縮減し、いくつかの前提条件を設けることで可能になった世界観に揺さぶりを掛け、土台から覆してしまう力を持っている。郊外の均質性にまつわる言説に限らず、個人の生にまつわるあらゆる矮小化、均質化に対する抑止力として働く彼女の言葉に触れることで、私は自らの立ち位置を問い直し、佇まいを正す。

郊外の美学の構築にむけてのメモランダム

藤田直哉


 郊外は都市の回復ゾーンなのか、それとREM睡眠に入る前の精神状態のように、受動的でありながら想像力にあふれた精神領域への純粋な前進の一歩なのか? 手に負えない都市の身体とは異なり、郊外の身体は完全に飼い慣らされている。郊外は巨大な動物園となり、住人の身体が有毛の哺乳動物のサンプルとなっているのである――J・G・バラード(木原善彦訳)


 モダニズムには「都市の美学」という側面があった。ここでモダニズムと言うときに想定しているのは、ダダ・シュルレアリスムや、T・S・エリオットらのような、都市が出現し、交通が出現し、電話などが出現し、工場が出現し、その変化を作品の中に取り込もうとした一連の表現のことを想定している。ダダには第一次世界大戦における戦車や毒ガスなどの兵器の出現が大きく影響を及ぼしていたし、シュルレアリストたちも録音技術や映画などの影響を強く受けた。大きく言えば、社会を構成する技術の大規模な変化がもたらした人間への影響を真剣に受け止めた作品群であった。
 では、「田園の美学」と対比されるべき「都市の美学」にさらに対比されるべき「郊外の美学」というものは存在しないのだろうか、というのが、「floating view――郊外から生まれるアート」と題された本展の企画趣旨である。その「田園」「都市」「郊外」という三項目を、単純にプレモダン、モダン、ポストモダンに割り振るのは当然のことながら間違えている。本展は情報環境や建築工学・人間工学によってアップデートされた人間の感性・感覚を擁護するという点で、技術による進歩や新しさを価値の源泉とするような「モダン」の枠組みに片足を突っ込んでいることも確かであろう。大きく言えば、この展覧会は「郊外」と「情報」を巡る21世紀的な感性と問題系を、如何に「形にするか」ということを目的にしていると言っていいだろう。
本展が模索し、表現しようとしている「郊外の美学」とは、そのような「郊外」という「環境」が、自然と物理的環境と情報環境とを同時に意味するようになってしまった「感性」が、受容と創造の両方にどのような影響を与えているのかを巡るものである。実際の展示が「創造(形)」だとしたら、このカタログは「受容(価値判断)」を巡るものとなるだろう。本論は、本展で提示された「郊外の美学」の検討を目的とするメモランダムである。


 筆者は北海道札幌市のニュータウンで育った。泥炭地を埋め立てて作った、整然とした土地であり、中流階級の小金を持った人々が集まる場所であった。景観規制があり、時々CMが撮影されるような土地である。冬になると、スタッドレスタイヤのCMによく現れる。
 そのようなニュータウンの郊外が、僕は基本的にあまり好きではない。国道や道道沿いには、「ファスト風土」に典型的な建物が並んでいる。歴史性や情緒性を無視した設計の都市や住宅地は根本的に人間を疎外しているように感じられる。「都市の疎外」ではなく「郊外の疎外」があった。故郷の希求という心情も、故郷の喪失を嘆く気持ちも僕には存在しない。東京にいるほうが落ち着くぐらいである。
 その上で、なお「郊外の美学」の可能性があると言おうとすると、どうしてもアイロニーになったり、キャンプ的な面白がり方になってしまいそうになる。
例えば、広大に広がる平野の中に巨大な中古車販売所がある。そこに夜中になると巨大なネオンサインが灯る。真っ赤な文字で「軽」と。暗黒の中に浮かび上がる真っ赤なネオンの「軽」は、なにか変な美学を醸し出しているような気がしないでもない。でも、僕は馬鹿にしているのかもしれない。あるいは、道路にある巨大なボーリングのピン。車から見て一瞬で気づくことを目的とした広告なので、歩行者が見ると単に異様なだけのオブジェである。あるいは高速道路沿いにある、ペラペラの西洋風の城=ラブホテル。その全てに心の底からうんざりした末に湧き上がって来る面白みの感情を「美学」と名づけていいのかどうか僕には判断がつかない。単に「と学会」とか『VOW』のような面白がり方のような気がするが、それもそれで一つの美学なのかもしれない。
 とはいえ、そういう目線で見て「ダメさを愛でる」かのような美学にはあまり加担したくない。その加担したくないという気持ちは、美学的なものというよりは、倫理的なものである。それはほとんど郊外を対象とした搾取と簒奪の目線であり、郊外にロマン主義的心性を生み出してしまうのではないかと思うからだ。
保田與重郎は「日本の橋」において、立派な西洋の橋と比べて日本のみすぼらしい橋の方が良いと述べた。駄目なもの、劣悪なもの、弱いものが、それらを脳内・美学内部で転倒されるルサンチマンに加担するような美学の構築に僕は手を貸したくない。それはひょっとすると左翼的なクリシェである「ロマン主義からファシズムへ」という構図に僕が毒されすぎて、過剰反応をしているだけに過ぎないのかもしれない。しかし、僕は郊外型ロマン主義には加担しないという立場に立つ。よって、本論においてはこの「(ダメさを愛でるという)アイロニカルな美学」は徹底して禁欲する。
 とは言うものの、郊外の感性にある種の「だらしなさ」があり、「受動的でありながら想像力にあふれた精神領域」がそこに表現されているという言説もあるのかもしれない。本展の作品のいくつかには、そのような「だらしなさ」が(論者の作品も含めて)見受けられるかもしれない。
しかし、この「だらしなさ」にはいくつかのレイヤーが、それぞれある。「だらしなさ」の対義語として仮に「意識的」という言葉を使うとすると、その二つを巡るスペクトラムを便宜的に八つに区分できる。創作の対象とするものを「素材」と呼び、それを製作する作家の心理を「態度」と呼ぶ。さらにそれらの作品を受容というファクターがある。


素材    態度    受容
1、意識的   意識的   意識的
2、意識的   意識的   だらしない
3、意識的   だらしない 意識的
4、意識的   だらしない だらしない
5、だらしない 意識的   意識的
6、だらしない 意識的   だらしない
7、だらしない だらしない 意識的
8、だらしない だらしない だらしない


1は、最も緊張感のある作品制作と受容の場である。2は、単に受容者がいい加減な状態である。3は作者がダメなのに鑑賞者が必死に意味を見つけようとしている場合。4は、素材だけがよくて全てどうしようもない。基本的にこれらはあまり今回の論には関係しないので、考察から除外する。
5は、郊外のだらしなさを作家が意識的に作品にし、その意義がしっかりと受け取られる幸福な状態である。6は、そのような作品を、いい加減に観られた場合である。7は、どうしようもないものに無理やり意味を見出す、先ほど挙げた『VOW』の美学である。8は、一番アヴァンギャルドな気がするが、ustreamの放送や、ニコニコ生放送などの、話すことを何も考えていなくて、喋り方の抑揚なども聞き取りにくいものを、家でくつろぎながら見ているときなどを想定している。(余談ながら、筆者の作品はこの「だらしない受容」を想定して作られているので、美術として意識的に見られるのに適していない)
おそらく、郊外の美学や、それに隣接するコミュニティ・アート、ロスジェネ芸術、ニコニコ動画やネットの作品を巡る言説の価値判断で揺れているのは、この8種類に分類できる。その「だらしなさ」を否定するのは容易い(し、僕も五分の二ぐらいそういう気持ちである)。しかし、本展が目指しているのは、実現できた度合いは各作家によって異なるとしても、5であろう。郊外という「だらしない」「汚い」とされている対象をどこまで意識的に作品化できるかという課題がそこに真剣に存在していたとまずは受け取ることが重要である。その上で、僕はここでは評論家として、なるべく「意識的」に作品や展覧会を注視していきたい。


 「郊外の美学」と言ったときに真っ先に意識するのはヤンキー文化だろうか。五十嵐太郎編著『ヤンキー文化論序説』にはそのような文化の持つ美学の断片が見えていた。さらには速水健朗の『ケータイ小説的。』に描かれたようなケータイ小説浜崎あゆみなどが郊外の美学を体現するものと考えられるだろうか。あるいはパチンコ台などに現れている「美学」を分析するべきなのかもしれない。
とはいえ、これらは「郊外」だけではなく「地方」文化も含んでいる。「地方」と「郊外」には微妙な差異がある。「地方の郊外」もあるというまた面倒くさい部分があるのだが、基本的に本論では便宜的に郊外を二つの軸で分ける。「東京の郊外」と「地方の郊外」、「郊外の均質性」と「郊外の異質性」とにである。東京の郊外と地方の郊外には違いがある。そして郊外は均質化されているとは言え、やはり差異があることも確かである。それらは時に重なるが、基本的には分ける必要がある。
「郊外」の表象の仕方にも二種類がある。一つには、それがつるっとした安全でクリーンな異質なものを排除する、それが故に安心である空間であるというものである。伊藤計劃のSF小説『ハーモニー』はそのような郊外を意識した作品であった。多くの美少女ゲームの背景となっているのもこのクリーンな郊外である。ケータイ小説の多くに描かれる郊外もこのようなクリーンな郊外であるが、ケータイ小説の場合はいじめやレイプなどの殺伐とした要素が入り込む。
もう一方の表象の仕方は、郊外をひたすら陰惨で殺伐とした犯罪多発地帯のように描くものである。三浦展編著の『地方がヘンだ!』の写真や、富田克也の映画『国道20号線』に描かれる郊外はこちらに該当するだろう。
この「クリーンな郊外」と「殺伐とした郊外」は、郊外の二面性である。それは単に同じ場所が違う表象をされているという表現方法だけの問題ではない。郊外とはいえ、所得の階層やデベロッパーの志向などなどの要因が積み重なり、場所によって違う現実が存在するのだ。
 これらを「郊外」という言葉で一括りにしていいものなのか。生活スタイルやそこに入り込んでいる資本などによって均質的な構造になっているとしても、「郊外」として一括りにしてその「美学」を発見しようとすることは困難が伴うだろう。「郊外」という言葉が含んでしまう様々な多義性の困難がまず立ちはだかる。
そのような困難に、この展覧会(floting view)はどう立ち向かったのか。実際の作品を参照しながら、如何にして「郊外の美学」を構築しようという試みが行われたのかを見ていきたい。


 身も蓋もない事実から述べていくが、本展覧会の企画の中心となった佐々木友輔と石塚つばさは東京藝術大学先端芸術科に(片方は現役で、片方は過去に)属しており、その校舎は茨城県取手市にある。関東平野が広がっているのが校舎からは見える。東京に出る際は常磐線に乗ることになる。その校舎の場所と沿線の光景が、この展覧会を開催する動機になったり、作家が制作を行う内面に与えた影響は大きいであろう。つまり、この展覧会は、藝大先端科が存在する取手と、その近くに住んでいるであろう学生の感性が大きく反映されたものである。その前提の上で、経済的な側面も含めて、本展覧会のコンセプトに大きく関わった石塚の作品を見てみよう。
地域活性化のためにアートプロジェクトが多く催されており、「アート」の需要がそのような場所で生じているという経済構造上の問題も指摘しておくべきだろう。そのような「地域活性化」のプロジェクトでは、土地の「特色」が強調されるような作品が作られていく。それらは地方ならではの空間を生かした作品であることも多い。すなわち美術用語で言う「サイト・スペシフィック」な作品である。
 石塚の作品は、それ自体が地形を創り出す作品であり、本来は屋外の空き地や建物などに依存し、「作品」を環境との相互作用で提出しようとする清野のパフォーマンスを「生かす」効果を持っている(清野自身のパフォーマンスは口承文芸の伝統を身体に転写させ、移動可能にし、身体内部でバグらせるというものである)。
サイト・スペシフィックな作品がホワイト・キューブの中で効果を発揮しないのならば、その「サイト」自体を構築しようという意図を石塚の作品は持っている。グリッド的に均質化された「地形」が擬似「固有性」をその場に作り出すのだ。
郊外・地方型資本の企業が東京に入り込んでいる現状と重ねるようにして、ホワイト・キューブ=東京中心の美術の体制の中に、そこからはみ出す作品を押し込もうとしている。そのような資本の側面もまた作品内部で反映する作品である。
 石塚の作り出す擬似固有性は、大規模宅地造成をし、グリッドのように道路を敷いて、似たような住宅地を並べるような、デベロッパーの力を模倣したかのようである。他の作品が生きる環境自体を整える彼女の作品は、作品を「生かす」とともに、完全に包囲し、依存させるという性質も持っている。この二重性は、展覧会全体の持っているある不穏さにも深く繋がっていく。


 この展覧会の企画者の佐々木友輔は『新景カサネガフチ』という映画を制作している。架空の家族の未来を描き、ニュータウンを肯定的に描こうとした『新景カサネガフチ』は、情報や映像と現実を「重ね合わせる」意図を持った作品である。この作品はまるで、情報の中では実際に「幽霊(映像)」は住んでいるのだ、と言いたいかのようである。自己と映像とが乖離することの象徴であるかのようなこの作品は、自身の分身=情報的身体を「スクリーンの中」に居住させる/させたいという感覚を強く感じさせる。
この佐々木の主題とする「重ね合わせ」こそが、本展の石塚つばさによる会場設計にも反映されている。作品が単体で自立せず/できず、それぞれ連携しているのだ。会場設計自体で一つの作品を救っている、というだけのことではない。例えば遠藤の写真は一枚一枚の写真の並びで一つのストーリーを作っている。それと同時に写真の中で指を指している先には笹川の『うつろ戦士』がある。『うつろ戦士』は石塚の『Inlet』の上に少し被さるように飛んでいる。そして会場の壁の四方を上下に分断する遠藤の写真自体は、強烈な一本の線となっている。その線に連携されるように、田代の文章やni_kaの作品が提示される(ni_kaの作品の両隣は女子高生の写真になっているという微妙な連携もある)。そのラインは渡邉の「imageneological tree」に接続され、渡邉の考える「情報環境・ネットワーク上の映像」などを「本物の糸」で結んで表現している。そしてその糸の一部が拙作に繋がっており、立って見るには辛いその映像を石塚の『Inlet』が椅子として機能して救済してくれる。極端に見づらい高さと低さに置かれた藤田の作品は、単にお客さんの身体に物理的なダメージを食らわせることを目的としており、その結果石塚の作品に座らざるを得ないというところに追い込むという補完的な効果を持っているが、不必要に水を含まされたその『Inlet』は、座った人間の尻を濡らすというとても悪意のある設計となっている。(念のために言っておくと、極端に身体に負荷を掛ける展示にするように言ったのは僕ですが、座ると濡れるのは僕の指示ではありません)
 作品同士が、会場設計の時点で連携しあっている。そのような「見えない会場設計」が本展の肝である。実際の土地と、その上(?)に存在している情報環境を「重ね合わせる」感性がここには形として表現されている。筆者にとって、情報環境というのは、ギブスンのSF小説『ニューロマンサー』のジャックインのように、完全に別世界というイメージの方が強い。この展覧会に新しさを感じたのは、現実空間と情報環境を重ね合わせるその感性である。評論家の海老原豊が「空気の戦場」(『サブカルチャー戦争』所収)で指摘している通り、携帯端末やコミュニケーションと空気が密接に結びついた生活感覚を思わせる。これは僕の直観で思っただけのことなのだが、ひょっとすると携帯端末を当たり前に持ち、使っている人々は、「空気」自体を情報を伝達する媒体として考えていないだろうか。それどころか、「空気」に情報が満ちているとすら考えていないだろうか。どうしても我々は電線などのメタファーで未だに情報伝達を考えてしまうが、「空気」や「空間」自体が情報に満ちた伝達媒体と捉えて世界を見てみたらどうだろうか。驚くほど景色が変わる。僕はこの展覧会場で、そういう感覚を味わった。一見荒んで見えるこの会場は、その変容を起こすことが可能かどうかがいわば勝負どころとなっている。「見えない設計」が重要なのだ。
 その「見えない設計」は、物質と情報だけではない。人間関係のネットワークもおそらくは「重ねあわされて」いる。Twitterやブログなどでの告知や、このカタログでの異様なほどの評論家・学者の起用は、そのような「人間関係のネットワーク」や「評判ゲーム」自体も会場の設計と重ね合わせるような意図がおそらくは存在している。
 この「重ね合わせ」の感性が、僕にとっては一番面白いところであったと同時に、一歩間違えると危険なものになるのではないかという危惧も抱かざるを得ない部分であった。
 
 
 そのほかに本展で重要な位置を占めているのが「モニタ」である。このモニタもまた「重ね合わせ」が行われている。実際の作品に直接触れる前に、ざっと概略だけを確認しておきたい。
 現代では、本もメールも文字も映画もテレビもゲームも音楽も、多くのものがネット回線で接続されたモニタ上で鑑賞されるような状況になってきており、ジャンルやメディアの違いが徐々に融解してきていると言われる(中田健太郎や渡邉大輔の述べる「映像圏」とは、おおまかに言えばそのような事態を指している)。そのような状況の中で、モニタ内とモニタ外の境界も融解した「モニタと現実の二重性」とでも言うべき事態が本展覧会では観察できる。
 この「モニタと現実の二重化」は、メディア環境の変化に起因しているのかもしれない。テレビやネット、ゲームが当たり前の世代にとって、それらのメディアと現実の価値付けの重みが、旧来の「現実観」とは異なるという可能性はある。
 携帯電話のインターフェイスもまたモニタである。ケータイ小説の多くは「つながり」を希求するものであった。オンラインゲームのへヴィユーザーは現実の人間関係よりも濃密な「仲間」をそこに見出している。郊外には共同体が(基本的には)存在していないと言われている。そのような共同体が失われたことによる孤独による「承認への飢餓」が「つながり」を求める動機のひとつとしては考えられる。
郊外はクリーンであっても殺伐としても、基本的に新しく造られた場所であり、伝統的に存在していたと言われる濃密なコミュニティが存在していない。暴走族や不良などは、共同体を形成し、暴走や喧嘩などで死に接近して「生の意味への飢餓」を満たすための装置として機能していたが、「クリーン」になっていく世界の中で彼らのような存在は次第に居場所を失っていく。そうなるならば、その場所は必然的にネットや虚構の中に求められる。美少女ゲームなども、ポルノの機能よりは擬似的なコミュニケーションと承認の装置の側面の方が大きい。
 その「モニタ」の延長線上で「情報環境」のことも考えるべきであろう。「感性」にとって、情報環境は、デジタルデータやコードやサーバーや回線のような「見えない」部分の問題ではなく、あくまで「モニタ」の延長線上で捉えられる問題であるからだ。「モニタ」がまずあり、そこに回線が接続されているかいないかの差異として「感性」は受け取るだろう。(情報技術についての知識を得てからその感性が更新されることはある)
郊外住宅地や団地は、CGで作られたように見えるし、夜に電灯が灯っているとワイヤーフレームのように見えることもある。「郊外」自体が虚構性を持っており、物質だからと言って「現実」ではないことはおそらく確かなのであろう。そしてそれにより、「虚構」との境界が感性、あるいは主体にとっては揺らぎやすくなるという、郊外という「風土」の効果はあるのかもしれない。


ni_kaのAR詩が象徴的に示しているのは、そのような「虚構/現実」という二稿対立が消失した感性であり、そのような感性を表現する技術であり、技術が構築する感性という循環構造である。人工物が環境と化し、内面に入り込み、世界の見え方を変化させる。そしてその感性が新たな技術や作品を作り、それらがまた感性を変化させ――という、技術・環境と内面のフィードバックする循環的な「風景」こそが、「浮動する風景」あるいは「流動する風景」と題された本展覧会の持つ意味の一つであろう(それと同時に、floating viewという言葉は「眼差し」=鑑賞眼=価値判断の揺らぎも含意しているだろう)
実際の風景の中に技術的に映像を埋め込み「浮かばせた」ni_kaのAR詩は、技術的制約のために作品的強度には些かの疑問はあるものの、この展覧会のテーマをよく示している。「(内面化されたものであれ、そうでないものであれ)技術を通して人間が(見たいように)世界を見る」という問題が、セカイカメラという装置によって身も蓋もなく露呈するのだ。
空気の中に存在し、技術を通さないと見えない情報として「詩」が存在しているというのは、「詩」のあり方に一石を投じるものである。文芸評論家の中沢忠之はいち早くtwitterで以下のように評価している。

AR詩って面白いのな。これだれが考えたの? 詩の可能性の中心から詩の限界を突破する試みじゃないかと、素朴に思うのだけど。
ni_ka氏が、デコメ的な創作(http://yaplog.jp/tipotipo/category_4/)からAR創作に至るまで、これらを美術のくくりや、あるいはサブカル的なジャンルに囲い込まず、詩として展開したことが、すごい慧眼というか彼女の強さだと思う。
要するに、どのジャンルにも適用可能な創作なのだけれど(それ自体で面白いわけだが)、それをどのジャンルに切り込んでいくとより適切かという問題を、彼女はきっちりフォローしていた。
詩って第二芸術論(桑原)的な発想で語られやすいけど、むしろ形態変形上の身軽さには可能性があるわけで、AR詩はそれを積極利用して、隣接ジャンルをも巻き込みつつ詩の幽霊的な面白い部分をうまく拾い上げている。
ニコ動とか映像系はいうまでもないけど、最近のAR詩とかtwitter連詩の試みとか見ていると、コミュニケーションや公共的な側面を(形式的かつ歴史的に)強く持っている詩形式の元気のよさが伝わってくる。
(2011年3月5日から8日に掛けてのtwitterでの呟きを論者が取捨選択)

それは実際に現地で移動しながら見ることで「動く詩」でもあるが、同時にそれを写真に撮りネットにアップすることで、会場に直接来なくても「モニタ上」で作品を鑑賞することが可能になっている。彼女の「詩」は、「現代詩」が、紙媒体や様々な評価基準の枠の中に縛られていて、「現代性」を持っていないのではないのではないかという疑問からスタートしている。テクノロジーが進歩したのなら、何故色をつけたり動かしたり、空間に浮かべてはいけないのだろうか? 雑誌に掲載されるものだけが詩なのだろうか? いや、本来、詩人や文学者は、その時々の最先端のテクノロジーや媒体を利用したのではないか? それこそが現代性ではないのだろうか? そのように、現代の詩が取りこぼしている領域を彼女は積極的に「詩」に導入してアップデートしようとしている。それは詩人・評論家の佐藤雄一が展開している詩の朗読イベント、通称サイファーや、それのWEB版、通称「スカサイ」と似た趣旨を持ちながらも、佐藤氏が音声やリズムにこだわることに対して図像性に強くこだわるという特徴を持っている。WEBと詩の関係を考察する際に、この両者のアプローチの違いは非常に興味深い対照を示している。
 彼女のもう一つの作品であるモニタ詩は、そのような詩のアップデートを極端な形で行い、絵文字や顔文字なども「言葉」として取り込み、「新しい言文一致」を行わんとする野心的な作品である。
彼女の作品は、元々yaplogに発表されている。基本的にyaplogやアメブロなどの若い女性が利用するサイトは、「ペタ」や「足跡」や「あいさつ」などコミュニケーションの快楽を刺激する設計になっている。彼女の作品はそのようなブログの一つであるyaplogに書かれていながら、その内容は理解やコミュニケーションを拒絶するものである。
WEBという、基本的にはコミュニケーション志向のメディアの中に作品を提示しながら、コミュニケーションを拒否し、感情の伝達を支援する機能である顔文字を意図的に誤用し、言葉を「意味」ではなく「図像」化してしまう。ジジェク派の女性精神分析学者コプチェクが言うように、女性の自我が「身体表層」にあるとするなら、WEBによって拡張された身体表層が文字を身体化しているようにも見える。
コプチェクの議論を非常に単純化して述べると、ラカン派の精神分析派の系譜を組む彼女は、人間は「鏡」を見て自己を単一のものとして認識するという「鏡像段階論」を採用しており、鏡の中の「像」を介して自己の一貫性を獲得するとしている。精神分析の通常の理論では男性と女性とは主体化の過程が違うので、男性は「見る主体」として、女性は「見られる主体」と主体化されるとコプチェクは言う。これは理論を持ち出さずとも、社会的な規範かあるいは生物的なものかは分からないが、そのような傾向は現代社会の中に容易に見出せるだろう。
そこでコプチェクは、「自我」というものが、脳や魂のように、ひとつの点のような場所や体内にあるのではなく、身体の表面に存在すると考えた。そうすると、服やアクセサリー、化粧も自我なのである。技術が身体の拡張だとすれば、アバターなどの形をとって様々に拡張されていく身体はそれ自体が自我なのである。ni_kaの作品は、「見られる」身体表層であると同時に、ぐちゃぐちゃに解体された「鏡像段階」以前の身体のようですらある。言葉と像(鏡像)との関係、自我と身体と表層との関係にさらに言葉とモニタを導入し、鏡像段階論のモニタ版とも言うべき独自な表現を行っている。
この作品が極めて面白いのは、そのような文字=図像である自我表層を装飾しようとする過剰とも言える欲望が、yaplogや顔文字という既存のアーキテクチャーの目的を逸脱して不必要な領域に突入させている点である。
人間は無意識にコードにコントロールされる存在であり、実際にネットユーザーの多くは無自覚にそのコードに従っているのだが、彼女の作品は、そのコードが誘導しようとする目的に対し、身体・精神レベルでの拒絶を起こしているかのように見える。それは視覚的に、人間・身体・精神がコード=言語をバグらせているかのように見えるのだ。ここには、「ネット・コード・人間」を一貫したスムーズな機械系と看做す発想に対する強い違和感が表明されており、そのことが文字の「身体化」(自我表層化)という形で示されている。とはいえ、実際にコードがバグっているわけではない。あくまで表層でそう見せているだけである。
基本的に、コミュニケーションはコンテンツにならない。コミュニケーションが残した痕跡がコンテンツとしても面白い場合もあるし、コミュニケーション環境の中に投じられることを意識して創られる優れたコンテンツもある。あるいはコンテンツがコミュニケーションの側面を持っている場合もあり、この二つは簡単に切り分けることが出来ない。
彼女の作品は、コミュニケーション環境の中で生まれた美学をコンテンツ化しようとする作品であり、それ自体がコミュニケーション環境の中にありながらコンテンツであろうとする。「魔法のiらんど」などで書かれる些細なポエムや「携帯百景」など、地方の若い女性が多く使っているサイトの中に存在する「ポエジー」と、『現代詩手帖』のようなパッケージングされた「詩」との境界を探りながら「モニタ詩」や「AR詩」としてそれを提出する試みは、「詩」の制度の中で見えないものにされている、ケータイ的なささやかなポエムを「見えない」ARとして提示するということで痛切な批評性を持っている。
彼女の「絵文字」や「色」を文学に取り込み「新しい言文一致」を目指す文学的野心やWEB文学の可能性を切り開こうという野心は、背後に膨大な「魔法のiらんど」や「携帯百景」などに現れては「文学」に反映されない感性を中央に送り込み、内部から変えてしまおうという動機に支えられている。存在しているのに、見えないことにされている地方の中学生・高校生、OLなどの呟きや感性、あるいは表現技法(色や顔文字、絵文字)を見えるようにさせたいという動機は、AR詩にも反映されている。地方の素朴な女の子がナイーブにただ綴っただけのように偽装している“ポエム“は、セカイカメラという端末を通さなければ、そこにあるのに、見えない。この作品は、端末の性質上、実際に読まれる機会は少ないだろう。しかし、おそらくこの詩は無視されることによってその本来の批評性を完成させる作品なのである。端末や環境の限界により見過ごされ消えていく”幼稚なポエジー“は、それ自体がネットに多く現れている”幼稚なポエジー“の運命そのものであり、それ自体が「詩」の制度に対する痛切な批評になっているのだ。


モニタと現実の往復で言えば、笹川の『うつろ戦士』も特異な感性を示している。このビニールで出来た透明で空っぽのロボットは、かつてCG制作をしていた彼女が、周りの男性たちのロボットアニメへの熱狂に違和感を抱いて製作されたという。CGのワイヤーフレームで作られ、中身が空っぽなロボットたちをモニタの中から物質世界に出させ、その身体的な質量のなさを突きつける。
確かに、アニメやゲームなどで感情移入するロボットやキャラたちには質量が無い。厳密に言えばデータの重さやセル画の重さはあるとはいえ、基本的には体積が無かったり、身体の内部がなかったりしている。モニタと現実を同一視するような感性が醸成されているとは言え、一致しない一点が確実にあるのではないのか。そのようなことを、立体化された透明のワイヤーフレーム風のロボットは感じさせる。
筆者は実際にこの作品の展示設営を手伝ったが、この『うつろ戦士』は、ビニールで出来て透明で浮かんでいるにも関わらず、非常に重いのだ。支えている腕が痛くなったぐらいである。アニメやゲームをし続けていると忘れがちな、物質性や重力の感覚を、彼女は批評的に突きつけている。
 彼女のもう一つの作品である「セキュリティーシステム」シリーズは、さまざまなカメラなどを組み合わせたり植物などで作られた擬似監視カメラである。ここには、「見る対象」をぐちゃぐちゃに解体して組み合わせなおしてやりたいという欲望が強く感じられる。レトロなカメラを解体して組み合わせたその無骨なカメラは、ほとんどサイボーグかキメラのようである。「見る」だけで「見られる」ことのない場所に立つことを望む、監視カメラの向こうで(おそらくはモニタを見ているであろう)主体のグロテスクさを、カメラ自体をキメラ化させることで突きつける。


 「見る/見られる」の問題で言えば、石塚、笹川の作品が物体であり、清野は自身がそこにいることを作品とし、ni_kaと田代が言葉である一方、男性の作品はほとんど全て映像もしくは写真であることも指摘しておかなければならない。モニタや情報を身体化させようとしたni_ka、モニタの中のCGを物質化させようとした笹川に対して、佐々木、川部、遠藤は、現実の物質的空間を平面化させる作品を提示している。極めて乱暴な図式にしてみれば、身体表層にこだわる女性の作品と、世界を視覚で所有しようとする男性の視点とがこの会場の内部で衝突するように設計されている。
会場には笹川の監視カメラがある。私秘的に映像を用いようとしている佐々木らのプライベートな欲望それ自体を監視するかのような冷徹な視線がここにはある。この視線は石塚も意識しているものではあった。作品をメートル単位でグリッド化する彼女の作品は、世界を常に上空から監視する視線(世界視線)を意識させる。本展覧会では女性の方が極めて無慈悲な視線を獲得しているようだ。
男性の方が極めてナイーブに映像・視線に接しているようである。例えば遠藤の写真は何気ない郊外を移しているようでありながら、非常にナイーヴな内面を感じさせる。これは「モニタ」(映像)に対する愛着の差に起因するのだろうか? あるいは「カメラ」という装置が対象をデータ化して所有させてしまう機能を持っているという点を指摘するべきであろうか。
「環境」を撮影し所有するが、その映像を上映する「環境」は設計されたものの中に包まれている。このような循環が、この展覧会の中にはある。


 そして筆者が最も危惧するのは、この点である。本展覧会の佐々木のステートメントを見てみよう。「そこには、情報環境と現実空間のかさなり合いがある。/自然物と人工物のダイナミックなせめぎ合いがある。/身も蓋もなくロマンティックで劇的な私たちの生活がある」。
 18世紀のドイツ哲学では、精神と物質、理性と感性、外界と内界、社会と自由、貴族と市民など、矛盾するものをどう解決するのかということが大問題となっていた。それに対し、多くの人間が様々なアイデアを出した。
 そのような哲学的課題は、カントの影響を大きく受け、ドイツ観念論として発展していく。そしてその誤読や誤解釈、あるいは反発などを含め、イエナ大学周辺に集まっていたグループからドイツロマン主義が発生した。その主張も様々な彼らの思想をまとめて述べることは乱暴であるかもしれない。しかし、彼らの犯した決定的な過ちとして、「対立するもの」が解決するあるマジックワードのようなものを想定し、矛盾などを全部そこに叩き込んでしまえばいいという思想が存在していたことは否めない。そして、本展覧会に抱く危惧は、そこなのである。
「情報環境/現実空間」「自然物/人工物」という矛盾するものが「郊外」というキーワードで結びついてしまう。そしてそのことは「ロマンチック」だと言明されている。このように、矛盾したものを同時に両立させる思考は、ロマンティッシュ・イロニーに非常に似通っては来ないか。例えば、先に様々な分類を挙げた。「クリーンな郊外/荒れ果てた郊外」、「均質性/固有性」「コミュニケーション/コンテンツ」…… これらの対立が、如何なる形で、結びつくのか? ただ、「郊外」や「floating view」という言葉をマジックワードにするのであれば、それは郊外型ロマン主義でしかない。筆者は本展覧会からは非常に新しい感性や考え方やヒントを得て、刺激を得た一方で、このような郊外型ロマン主義の行き着く先について危惧の感を覚えずにはいられない。それは杞憂なのかもしれない。しかし、願わくば、その思考方法の陥る隘路を避け、開かれた表現を続けて欲しい。


 筆者は、最近、「隠喩的思考」を主題とするいくつかの論考を書いた(「過剰なる隠喩と解釈可能性の悪夢」『ユリイカ』2011年3月号貴志祐介特集)。その原因として、仮説に過ぎないが、情報環境や情報装置の影響があるのではないかと述べている。シェリー・タークルは『接続された心』で、インターネットではブリコラージュの原理が優勢になると述べた。ロイ・アスコットも、多少古い文章であるが、「ネットワーキングは『連想的思考』という言葉にもっとも増幅された解釈を与えうる、想像力の絡み合いを織りあげる」(「芸術と情報通信技術」)。現にネットなどを見ていて進行しているのは、類似性や隠喩などによる重ね合わせの思考の優勢である。それを「隠喩的思考」と仮に僕は名づけ、以下のように述べた。

情報環境という装置自体が私たちの思考方法を決定していき、その思考方法の上で言葉や世界を理解していく以上、そのような「隠喩」の効果について徹底的に醒めた目で見据える敏感さを持ち自分たちの「思考方法」自体を撃つことをしなければ、「言葉」の操作によって、私たちの世界観は次々と作り変えられ、都合のいいように操作されてしまうだろう。それでも構わないという生き方はそれはそれで一つの生き方だ――だが、それが嫌だという気持ちが少しでもあるのなら、「隠喩的思考」に対する警戒を怠るべきではない。「喩えるもの」と「喩えられるもの」の具体的な差異と同一性について緻密に思考を行うことこそが必要なのである。(拙稿「隠喩としての戦争」)

我々は類似性によりどこまで重ね合わせをしていいものなのだろうか? それは生産的な場合もあれば、そうでない場合もあるだろう。どこまでが重なり、どこまでが重ならないのか、どこまでを重ねていいのか、どこまでは重ねていけないのか、その厳密な確定が、倫理と美学と生活の名において、必要なのではないだろうか。
 本展覧会は、そのような現在の郊外的感性と情報環境に接している者の感性を形として表現し、伝達するものとして、鑑賞が困難な部分もあったとは思うが、一定の成功を収めたことと思われる。しかしながら、作品の美的強度や倫理的問題、そして価値判断の基準やここから派生していくだろう思想などに対しては、まだまだ吟味と議論が必要であろう。本展覧会と、ささやかなこの文章が、新たに生まれてくることは間違いのないこれからの郊外のアートや美学に対して何らかのヒントや議論の足場になってくれれば幸いに思う。

作家紹介(2)/記憶の化石 郊外における口承芸術/清野仁美『波多野物語』

文責:佐々木友輔


 floating viewにおいて、郊外を定義づけるキーワードとなっている「忘却の歴史と希薄さの地理の神話と現実を生きること」(若林幹夫)をまさに体現して見せてくれるのが、清野仁美による『波多野物語』のシリーズである。
 この作品は、かつて誰かから聞いた話を作家自ら口承で公開するというもので、これまで旧フランス大使館の一室や、徳島の上勝町に設置されていた小屋、茨城の大学近くの休耕地など、様々な場所を舞台に展開している。しかし「これはパフォーマンスではなく展示だ」と言い、自らを性能の悪いテープレコーダーに例えながら「展示品としての身体」であることを強調する彼女の一貫した姿勢は、それがいわゆるコミュニティ・アートとは異なる問題意識、文脈に基づいた作品であることを示している。


 『波多野物語』というタイトルと口承の形式からも明らかなように、この作品の背景には柳田國男の『遠野物語』を始めとして民俗学・人類学が取り扱ってきた口承文学・口承芸術の歴史がある。しかし彼女は、ある時代・ある場所の風俗や文化、生活を伝える口承芸術の資料的価値という側面から意図的に逸脱してみせる。というのも、そこで語られる物語は多くの場合、彼女自身もなぜ覚えているのか分からないような些細な出来事の記憶であり、しかも時を経て細部は風化してしまい、かろうじてその痕跡だけが認められるようなものであり、口承芸術に刻印されているはずの固有の場所性・歴史性が見事なまでに希薄なのだ。
 作品展示の形態も示唆的である。当初は、来場者がリストの中から選択した物語を語る形式だったのだが、2010年10月に行われた「ATLAS」展(於 東京芸術大学取手校地)では、封筒に物語の題目がひとつ書かれた紙をランダムに入れて、来場者にその封筒を一枚取ってもらうという形式に変更された。くじ引きやおみくじのように、作家・観客双方がそこで語られる物語の選択を偶然性に委ねることになったのである。
 山間の棚田が見渡せる広大な風景や、セイタカアワダチソウが一面に繁茂する風景といった強く印象に残る場所で、非場所性・非歴史性と選択の偶然性を徹底させた物語が、何らドラマチックな瞬間を迎えることもなく、淡々と業務をこなしていくような冷めた声音で語られる。語りが終わると、来場者は、唐突に宙空に放り投げられたような奇妙な感覚を味わうことになる。この物語は一体何なのか。なぜ語ったのか。物語と作家、物語と場所、場所と作家、それぞれがどのような理由でどのように関連しているのか。思考を巡らせても、きっと答えは出てこないだろう。明確な像を結ばないこと、それ自体が、この物語の成立条件であると言わんばかりに、彼女は言葉を紡いでいく。そう、彼女は多くの口承芸術の語り手と同様に「神話」を語る。ただしそれは「忘却の歴史と希薄さの地理の神話」なのである。


 通常、私たちは、重大な出来事や印象的な出来事についてははっきりと覚えているが、他の記憶の多くは、時が経つに連れて少しずつ風化していき、やがて消え去ってしまう。しかし時々、風化するはずであったにも関わらず、残ってしまう記憶がある。人生に大きな影響を与えたとも思えないし、もっと大事なはずの記憶は次々に薄れて消えていってしまうにも関わらず、なぜだか残っている記憶——。それは、ノスタルジーや後悔の念を思い起こさせるような記憶でもない。いや、元々はそうだったのかもしれないが、もはやその記憶からは、当時持っていた感情や生々しさは感じられない。ある程度まで風化のプロセスが進行し、その記憶に関するあらゆる肉や水分は剥奪されてしまっているが、何か特殊な環境に置かれていたためなのか、粉々になって風化してしまうことはなく、元の輪郭を保ったまま石化してしまった記憶というものが存在するのである。「記憶の化石」とでも言うべきものが。
 「記憶の化石」は、ただそこに在る。なぜそこにあるのか、消えずに残っているのか、納得のいく説明は出来ない。またその記憶の持ち主は、化石に対してどのようなアプローチをすることもできない。なぜなら、それがあることによって、その人は懐かしみを覚えたり楽しい気分になることもなければ、苦痛を感じたり、当時の状況に対して後悔することもないのだから。それは、動植物の化石がそうであるのとじ同様に、ただそこに在って、かつてそのようなものがあったということを思い起こさせるだけのものである。
 そしてそれは、ある特別な意味で、凍てつくような孤独であり悲しみである。そこに何かが在るにもかかわらず、それに対して何も働きかけることができない、触れることができないという孤独。そして、何もすることができないという事実に対して、ほとんど感情が動かないということ、その事実をすでに受け入れてしまっていること、それ自体への悲しみだ。


 忘却の歴史と希薄さの地理の神話と現実を生きること、郊外的環境を生きることとは、明確な記憶が像を結ばず、このような「記憶の化石」だけが無数に遍在する世界を生きることにほかならない。清野は、自分自身がメディアとなり、あたかも巫女が神に対してそうするように、「記憶の化石」を自らに憑依させて、それを鎮めるために物語を紡ぎ出す。まるで、「記憶の化石」に対して行える唯一のことは、埋もれている化石を見つけだし、それを拾い上げて、誰かにただそのまま語ることだとでも言わんばかりに。ぶっきらぼうで事務的な語り口も、おそらく物語に対する無配慮なのではなく、「記憶の化石」を壊してしまうことなく拾い上げ、なるべくそのままのかたちで聞き手に手渡すための配慮であり、また愛情でもあるのだろう。


 「私」が「この私」であること、「いま、ここ」に存在することの自明性が崩れ去り、すべてが偶然であるかのように感覚されてしまう郊外的環境において、それでもなお私たちは、自らに固有の物語を語ることが出来るのだろうか。郊外の病理などと言うまでもなく、現代に生きる誰もが無関係でいられないであろうこのような問いに対して彼女は、化石となり、なぜ覚えているかも定かでないささやかな記憶がそれでもなお自らの内に残り続けているという事実に、僅かながらの希望を抱いているのではないだろうか。