作家紹介(8)/映像環境を遊泳するための地図/渡邉大輔「映像圏(imagosphere)」『imagenealogical tree―映像圏でつくるイメージの系譜』


文責:佐々木友輔


 floating viewに欠かせないキーワードのひとつである「情報環境」を、映像・映画の観点から読み解こうとしているのが渡邉大輔である。彼は「映像圏(imagosphere)」という概念を提唱し、現代の映像文化が示す記号的特性やリアリティについて論じている。YouTubeニコニコ動画などの動画共有サービス、商業映画にドキュメンタリー、アニメや実験映画まで、あらゆる種類の映像を縦横無尽に横断し、限りなく膨張を続ける現在の映像環境を俯瞰しようとする野心的な取り組みである。


 渡邉は、まさに今ある現状や変化の起こりつつある場所に身を投じつつも、自らの取り扱う対象を「古い想像力」「新しい想像力」のようなかたちで分類し、一方を否定してもう一方を持ち上げるような方法を徹底して避ける。『サブカルチャー戦争』刊行記念のトークイベントやその後のtwitter上での関連するやりとりでも、蓮實重彦を中心とするシネフィル的な映画の見方を否定しようとしているのかという問いに対して決して首を縦に振ることはなく、シネコンやロードサイドのレンタルビデオショップを通した映画体験もシネフィル的な映画体験もあくまで等価なものとして、共に重要なものとして捉えたいのだという姿勢を崩さなかった。
 様々な位相にある映像環境をめぐるキーワードをあくまでもフラットに、一元的に配置していくことにこだわるのは、実際に映像環境がそのように組織されているという核心に基づくのだろう。キットラーの『グラモフォン・フィルム・タイプライター』などでも予言されたように、様々なメディアは今、情報環境の上で統合されつつある。もちろん、メディアによって統合しきれない余剰、統合することによって失われる重要なものがあることは確かだ。しかし、たとえ擬似的であれ、それが「映像」である以上、形式変換すればすべてQuickTimeで再生可能で、MAD動画の「素材」として扱い得るというリアリティがうまれ、実際にそのようにして映像が受容されていることは明らかだろう。また、フェイク・ドキュメンタリーや3D映画、マーチャン・ダイジングの隆盛は、これまでは「映画」の外にあると思われていたものも含めて捉えなければ、理解出来ない状況、評価出することの出来ない映画を数多くうみだしてきた。そのような映像環境のあり方を、渡邉は自らの語り口・文体の上でもなぞり、実践してみせる。
 もちろんこのような仕事が可能なのは、これまでの映画史的蓄積に向けてはっきりと眼差しを向けているからこそである。戦前期の日本の映画教育や児童観客を研究テーマとして博士論文を執筆するなど、彼の研究は現代の映像メディアに留まらない。1900年代の玩具映画(家庭内映写機)に映画のモバイル化の契機を見出し、1940-50年代のドライブイン・シアターまで遡って映画文化と郊外文化の結びつきを探るなど、様々な時代・場所の映画史を関係の線で結び、「現在」という一平面へとかさね合わせていく。
 こうして時間軸を失った映像の群れは、必然的に空間に広がっていくしかない。ある限られた区域、周囲を囲ったかたちを表す漢字「圏」を用いて「映像圏」という造語をうみだしたことからも分かるように、時間芸術である映画を単線構造のテキストとして記述するにも関わらず、渡邉の書く論考は極めて無時間的で、空間的な特性を持っているのだ。


 この、テキストの空間性をより強調した「地図」を制作してほしいという私の希望に応えて彼が制作してくれたのが『imagenealogical tree―映像圏でつくるイメージの系譜』である。
 会場に設置されたこの作品は、一見、展示された各作家の作品を解説するキャプションのように見える(し、実際にそのように読むことも出来なくはない)。しかし注意深く読み進めてみれば、彼の言葉は、ここでは、他の作家たちの作品よりも上位に立って一方的な論評を加えるようなものではないことに気づくだろう。同じ会場の中で、対等な立場で並べられた状態で、周囲の作品に干渉したり、逆に干渉されたりする(具体的な方法こそ異なるものの、批評がその対象と直接対峙させられるという意味では、藤田直哉の「ザクティ革命」と共通する部分もあると言える)。会場内の個々の作品の意味合いをずらしたり拡張したりしながら、会場の外に広がる様々な事象と結びつけていくハイパーリンクとして、彼の作品は機能するのだ。ここでは、映像圏という概念に基づいて書かれたテキストそのものが映像圏的状況に組み込まれるという入れ子構造がうまれている。


 彼の試みは、何よりもまず、実制作者にこそ読まれるべきだと思う。映像圏的状況が広がり、受け手の側は(無意識であれ)それに応じた受容形態をとりつつあるのに対して、従来からの映像の作り手の意識(や業界の構造)は受け手の意識に追いついていない。映画監督、映像作家、PVなどのクリエーター、ゲームクリエーター、テレビアニメなどのアニメーター、アートアニメーション作家、メディアアーティスト——これらの間にはまだまだ、大きな壁がそびえ立っている。一部のフェイク・ドキュメンタリーやウェブ上での映画の公開、ウェブブラウザを利用した映像作品など、領域を横断・攪乱するような作家も出てきているが、思いつきによる一過性の取り組みに留まるものも多く、全体としてみればまだほんの一握りに過ぎない。
 また、現在映像制作を行う者・志す者の多くはおそらく、映画の文法書や理論書よりもむしろ、finalcutやpremier、あるいはimovieなど映像編集アプリケーションのアーキテクチャや、そのマニュアルに影響を受けている。ファイル形式変換の容易さの度合いや、撮影・編集機材の互換性によって、つくる作品内容そのものが影響を受けたり、気づかれないところで膨大な映像記録が後世に残らず消え去ろうとしている。
 こうした(ある意味で)環境管理的なゾーニングが行われている映像制作環境に対して、渡邉の活動は別の回路を指し示してくれるだろう。『imagenealogical tree』について語ったところとは矛盾するようだが、アーキテクチャによるゾーニングの影響を受けない場所から、映像環境を俯瞰して眺め、人力で関係の線を結んでいくことによって描かれた「映像圏」は、アーキテクチャ思考では気づくことの出来なかったものとの出会いや、実はすぐ傍にあったものとの出会いを与えてくれる。彼の論考、そして活動の全体は、映像制作者が領域を横断し、映像環境を自在に泳ぎながら制作をするためのマニュアル、あるいは地図なのである。