作家紹介(9)/ 生きる環境、生かされる権力、生きている作品/石塚つばさ『Inlet』『mother』『PANGAEA』


文責:佐々木友輔


 石塚つばさは、絵画やインスタレーションを中心とした作品発表に加え、植物に関する勉強会と制作活動を兼ねたプロジェクト「オニワラボ」の展開など、多岐にわたる活動を続けている。彼女は、企画立ち上げの段階からfloating viewに関わり、また、私がここで描こうとする郊外観や場所観の元となる様々なアイデアを提供してくれた作家であり、実質、この展覧会の共同企画者と言って良い存在である。


 石塚の制作の根底にあるのは、植物の育成や観察を通して培った、生物をラインとして捉える眼差しである。「動物や植物には皆、1本のラインが通っており、それを軸に身体が構成されている。そのラインを掴み、変形させていくようなやり方で制作をしたい」と彼女は言う。例えば雑誌などの切り抜きを用いた絵画作品のシリーズや、シンポジウム『西江雅之の世界ボーダーを超えて』 のフライヤーデザインは、一見すればそこに描かれているのは実在する動植物でない(そもそも生物かどうかさえ分からない)ことは明らかであるにも関わらず、まるでどこかで偶然見つけた植物を観察して描いたボタニカル・アートのように思えてくる。見たことのない生物ではあるが、決して(人間の想像力としての)奇形ではなく、フランケンシュタイン的な継ぎはぎの身体にも見えない。そこに描かれた生物のような何ものかは、不気味な姿をしながらも、それがさも当然であるかのようにあっけらかんとして佇んでいる。
 このように、コラージュという技法を用いているにも関わらず、パーツの組み合わせによる記号的な身体理解とはまったく異質な彼女の方法は、前者がグラフィックソフトの「Photoshop」的コラージュ(画像の継ぎはぎ、コピー&ペーストによる画面構成を行う)だとすれば、「Illustrator」的なコラージュ(ベジェ曲線と呼ばれる、数式によって記述されたラインを用いて描画する)であると言うことも出来るかもしれない。コラージュする素材自体の内にあるラインをつかみ取り、折れてしまわないさじ加減で曲げたり伸ばしたりして変形し、他のラインとつなぎ合わせていくことで、新たな生物のラインをかたちづくっていく。逆に言えば、ラインさえつながっていれば、扱う素材が生物であろうがなかろうが、結びつける素材の種類が異なろうが、彼女は有機的な生物的な運動の流れをつくりだすことが出来るのだ。


 しかし石塚が、こうした感性——野性的直感とでも言うべきもの——を、そのままストレートに表出することは少ない。彼女が生まれ育った茨城県守谷市は、典型的な郊外都市として開発が行われ急成長した街である。幼い頃にはまだ空き地や緑が多く、古い町並みが広がっていた風景は、次々にショッピングモールが建設され、2005年にはつくばエクスプレスが開通するなど、めまぐるしい変化に晒されてきた。区画整理され平坦にされていく土地や、その環境に応じた人びとのライフスタイルの変化など、石塚は自らの郊外経験を通して社会学的・行動心理学的な観察眼を持つことになる。
 彼女がこの問題意識を初めてかたちにしたのが2004年に発表した『装置:大こたつ』である。展覧会場の通路の中心に設置された円形の巨大なこたつは、一見シンプルな形状だが、隣り合う人と人との距離や、座った時の視線の方向などが緻密に計算されており、訪れた観客にそこを迂回して進むことを強いたり、こたつに入って一休みすることを促したりする。最も効果的な場所をピンポイントに狙ってこたつという装置を置くことで、観客の移動の流れや関係の在り方を変化させるのである。
 これは、東浩紀のいう「環境管理型権力」をアートの文脈に持ち込む試みであると言えるだろう。環境管理型権力とは、命令や訓練によって相手を無理に従わせるのではなく、環境そのものを設計することによって無意識のうちに人の心理や行動をコントロールする権力形態である。そうした設計のあり方は「アーキテクチャ」とも呼ばれ、情報工学や人間工学の発展と共に、現代的な社会設計・権力のあり方として注目を集めてきた。石塚は、私たちの行動の自由を制限するこの「見えない権力」を作品化=可視化することで、むしろ私たちの感性を触発し、周囲の環境への意識を高める装置へと転換して見せたのだ。


 主に絵画作品を通して描いてきた生物のライン=形態というテーマと、区画整理させていく郊外体験や人間の行動パターン観察の中からうまれた環境管理型権力というテーマ。この二つのテーマをかさね合わせ、ひとつの作品のもとに統合することが石塚の次なる試みとなった。そのために彼女が選んだのが、「芝生」という素材と「家具」というモチーフである。芝生は、生物でありながら遠目に見れば均質なテクスチャを持っており、フローリング材のようにロール状にして販売されるなど、限りなく人工物に近い扱いをされる自然物として、特殊な存在感を放っている。しかしそのイメージとは裏腹に、維持管理には専門的な知識や経験を要する扱いづらい植物でもある。
 2007年に石塚は、この芝生を用いた家具のシリーズの第一弾である『PANGAEA』(パンゲア)を制作する。鉄で組まれた構造の上に芝生を貼り、持ち運び座れる椅子として構想されたこの作品は、並べていけばシュミレーションゲーム『大戦略』シリーズのマップのように六角形に区分けされた巨大な土地となる(『PANGAEA』はこれまでに約70セット制作された)。並び替え、組み替えていくことで様々な形態へと変貌する移動大陸である。
 同様の問題意識を引き継ぎながら、生物のライン=形態というテーマをより強く打ち出したのが2008年の『mother』である。この作品は、赤血球のように中心のくぼんだ円形の椅子であり、芝生で構造の全面が覆われている。『PANGAEA』のような移動・組み合わせは行えない代わりに、その形状——特に円の曲面や中心の窪みへと向かうなだらかな勾配など——に細心の注意が払われ、それ自体がひとつの生物であるような形態を持たせていると同時に、座り心地や、その上に寝転がった時の身体の沈み込み方などが周到に計算されている。『装置:大こたつ』ではそこに座る者たち皆の視線が内側中央に集まったが、『mother』では逆に外側に向かうように設計されていることも指摘しておくべきだろう。
 『mother』に関して興味深いエピソードがある。横浜のBankART Studio NYKでこの作品が展示された時、他の作家の作品に厳しい目を向け辛辣な批評をしていた集団が『mother』の位置まで来ると、そこに腰かけ、先ほどとは打って変わって穏やかな表情になり、談笑を始めたのだ。瞬時にして場の空気が変わった。そして結局最後まで、この作品に関する批評の言葉はないまま、彼らは立ち去っていった——。この時『mother』は、作品とすら認識されないほどに環境の中に溶け込み、まさに「見えない権力」、環境管理型権力として機能したと言えるだろう。


 石塚がfloating viewに出品した『Inlet』は、『PANGAEA』と『mother』それぞれの特色が統合されており、芝生を用いた家具シリーズの集大成的な作品になっている。彼女はfloating view全体の会場構成を担当し、他作品の配置との関係性を考慮しながらこの作品を制作した。「Inlet」が「入り江」を意味する言葉であることを考慮するならば、これは、芝生の椅子という造形物単体で成立するものではなく、展覧会場の空間全体を通して観て初めて成立する作品であると言える。芝生の椅子を陸地とし、その周囲の空間を海洋とする、その間にある関係性のあわいが入り江=『Inlet』なのである。
 『Inlet』は『mother』の円形の内側にあるラインを掴み、奥行きのある長方形の会場に合わせてぐにゃりと引き延ばしたような形態になっている。CADは用いず、ある程度の形態をつくった後に、グラインダーなどを用いて手探りで成形していく、彫刻的な作業を通して、微妙な曲面やバランスが整えられている。サイズは全体で長辺6m、短辺最大2m50cm。これが1m単位で分割された14のユニットによって構成されており、それぞれ下部の目立たない位置に取り付けられたキャスターによって好きな位置に移動させることが出来る。
 また、各ユニットはキャスターによる移動のみならず、構造自体を解体してコンパクトにまとめることが出来るように設計されている。解体したパーツを別の場所へ移動させて、再び組み立てて芝を貼ることで、様々な条件の場所で簡易かつ迅速に作品を設置することが出来るのである。これは、在庫保管場所の省スペース化や配送トラックへの積載個数の増加を意図して北欧家具メーカーのIKEAが導入した、顧客自身が自宅で組み立てる「フラットパック」(平らな梱包)と呼ばれる方式を美術作品にまで適用したものであると言えるだろう。フラットパックと各ユニットの移動という高い機動性によって、『Inlet』はまるで突如空間に出現するかのように、場所から場所へと移動する。家具への擬態、そして『PANGAEA』で試みられた「移動大陸」というモチーフは、ここにおいてさらに先鋭化されていると言えるだろう。
 『Inlet』は、均質なホワイトキューブに固有性をもった土地を持ち込み、その形態と配置が、人の移動する流れをつくりだす。観客は『Inlet』の周囲を回ったり、ユニットを移動させて、そこに座って作家の作品を観たりする。3月5日に行われたシンポジウムの際には、ユニットの配置を変えて客席や機材卓として用いられたほか、会期中不定期開催の清野仁美による作品『風人なるものに関する収集』の「語り」のための椅子としても使用された。floating viewにおいて起こるアクションはすべて、この作品から——この作品を介して——始まるのである。


 しかし石塚は、家具としての機能や心地よさのみを追求するわけではない。むしろそうした用途と対立するような要素が、設計の段階からこの作品に含まれている。
 『Inlet』を構成する各ユニットのスケールの基準となっているメートル法は、地球の北極点から赤道までの子午線弧長の1000万分の1として定義される長さの単位である。これは、一見キリの良い数字にも思えるが、人間の身体というスケールを基準として考えると、決して収まりの良い数字ではないことに気づくだろう。家具やそれを組むための資材にはそれぞれサイズの規格があり、メートル毎のサイズで売られていることはほとんどない。地球を基準としたスケールは、人間には収まりが悪く、扱いづらいのだ。石塚はあえてそのメートル法で分割したユニットを作成することで、人間のスケール感とのズレ、違和感を作品に持ち込んでみせる。
 また、『PANGAEA』は六角形という幾何学形態であったために組み合わせの自由度が高く、ユニットをいくらでも増やすことが可能であったが、『Inlet』ではひとつの有機的な形態を分割してユニット化しているため、その分組み合わせや配置の自由度が制限されている。さらに分割された断面には、一般的な家具以上に深く黒ずんだ色味の(血を思わせる)赤色が塗られており、一度位置を移動させても、何となくもとの場所に戻さなければという気にさせられる。こういった箇所にも、家具としての収まりの良さへの作家の反抗の意思——可塑的であると同時に不可逆でもある形態の志向——が見てとれるだろう。
 そもそも、floating viewについての論考で藤田直哉が指摘するように、水分を含んだ芝生は、座ると泥や汚れがつく。作品が置かれた会場には生きた植物特有のにおいがする。視覚的に見れば人工的な印象を与える芝生(座るまではそれが天然芝だと気づかず、人工芝だと勘違いする観客も多かった)も、実際にそれに触れてみると、生物であることが必然的に持つ生々しさ、そして融通の利かなさがあらわになるのだ。この作品は、フラットパックという効率化を突き詰めた家具に擬態しておきながら、毎日水をやり、世話をしなければ枯れてしまう芝生に覆われているという、相反する要素を同時に持っている。環境管理権力が、生物の行動パターンや心理に依存するからこそ効力を発揮すると同時に、そのようなシステムであるが故に例外状況のおきやすいフラジャイルな権力でもあるという二面性を石塚は正確に表している。


 東日本大震災が起こった直後、作品の被害状況を確認するために会場に駆けつけると、その日の朝にはぴったりと基本形態で設置されていた『Inlet』は、揺れでキャスターが動いたのだろう、ユニットが5cmほど移動して、中央縦のラインを軸にしてまっ二つに割れたようなかたちになっていた。それはまるで、地震によって大地に亀裂が入ったような光景だった。
 会場のトーキョーワンダーサイト本郷は臨時休館となり、『Inlet』は約5日間、水やりなどの世話をすることが出来ないままそこに置かれていた。地震から6日目、展覧会の再開が決まりメンテナンスのために会場に入ると、『Inlet』は水分不足のために芝が枯れたり、逆に保水のために覆ったビニールによって通気性が悪くなりカビが生えるなど部分的にダメージを受けていた。しかしそれによってこの作品が価値を失ったというわけではない。『Inlet』は震災の前よりもむしろ、その存在感を増しているように見えた。
 私は以前、戸川純のキャッチコピーをもじって石塚の作品を「切ると血の出る現代美術」と評したが、『Inlet』においても同じことが言える。用いられている芝生が正しく管理され、人工的なテクスチャを保っている状態が必ずしもこの作品にとってのベストコンディションではない。所々にダメージを受けた芝生は、ひとつの作品の上に別個のビオトープを、固有の地理性を形成し始める。荒れた大地、生き生きとした草原の広がる大地、日(照明)が当たらないひょろひょろとした芝の伸びる大地——。それはまるで、ホワイトキューブの外に広がる地表の縮図のようである。死にゆくことによって初めて、制作者の管理の元から離れ、うまれる独自の生。石塚がここで試みているのは、作品においてそのような生を描くことではなく、そのようにして「生きている」生物としての作品を、その周囲の環境と共に、立ち上げることなのだ。