作家紹介(10)/探索的な映画/佐々木友輔『新景カサネガフチ』


文責:佐々木友輔


 拙作『新景カサネガフチ』の制作は、2010年の秋頃、floating viewの企画立案と同時平行で行われた。私にとって、この映画の撮影はそのまま「郊外」についてのリサーチの役割を果たすものであり、脚本の執筆は展覧会のステイトメント執筆にダイレクトに結びついている。これはいわば探索的な映画であり、ある意味では、floating viewのドキュメンタリーとして、そしてこの展覧会が前提としている郊外観がどのようなものかを知って頂くためのガイドとしても観て頂けるだろう。
 『新景カサネガフチ』の物語構造や、郊外と情報環境の関係性を巡るテーマなどについては、他の執筆者による論考の中でも多様な観点から論じて頂いているので、ここではこの映画の「探索的」な側面、特に移動撮影の技法に焦点を絞って、手短に作者解説を行いたい。


 郊外に対して私たちが植え付けられた先入観というものは、簡単に変えることの出来るものではない。郊外を観察するという目的を持った時点で、私たちは無意識のうちに国道沿いのファミレスを想像し、新興住宅地の白壁を眺め、これまで描かれてきた郊外像とかさね合わせる。目の前の現実を既存の言説の側に引き寄せ、「均質で何もない郊外」というイメージを強化してしまうのだ。
 そのようなイメージから逃れ、郊外のまったく別の姿を知るために、ビデオカメラというツールは非常に有効に働く。人間の視覚の論理とは異なる論理(機構)で対象を見つめるビデオカメラの眼差しは、私たちの見ていなかった/見ようとしなかったものも事務的に、淡々と記録し続ける。映像を見返してみると、撮影時には気づかなかった様々なコト・モノ、そして場所の特性が記録されていることに気づくだろう。『新景カサネガフチ』の撮影は、このようなビデオカメラの機能を生かして、私たちの目には見えづらい場所のあり方を浮かび上がらせることを意図している。そしてその効果をより高めるために試みたのが、異なる複数の移動手段を用いた撮影スタイルだ。


 この映画では主に、手持ちカメラで歩きながらの撮影、自転車に乗っての撮影、自動車の助手席からの撮影、電車の車窓からの撮影、といったように4つの移動撮影法を使い分けている。これらの違いは、言い換えれば映像に伝わる「手ブレ」の種類の違いであり、撮影者と被写体=場所との関係性のあり方の違いを鮮やかに示している。
 手持ちカメラで歩きながら行う撮影では、何よりもまず撮影者の歩行のリズムが「手ブレ」として記録される。ヒトは左右の足を持ち上げて歩くため、その上下運動がカメラに伝わる。加えて、被写体を前にしての迷い(どの対象を追うべきか、引いて撮るべきか、寄って撮るべきかetc.)や、歩き続けることでの疲労、カメラを持ち続ける手の震えといった要素が混入してくる。ここでは、ある場所、ある環境に置かれた撮影者の身体の動きが記録されていると言えるだろう。
 それに対して自転車に乗っての撮影では、歩行の上下運動のリズムは当然のことながら失われることになる。自転車の両輪は地面に密着して回転し、その土地のテクスチャ(滑らかなアスファルト、でこぼこした石畳、砂利道etc.)をダイレクトにカメラを持つ手に伝える。自転車という移動手段は、ここでは土地のテクスチャを手ブレ映像へと変換するスキャナの役割を果たしている。
 自動車の助手席からの撮影は、四輪で自転車よりも安定した走行をすること、また、多くの場合車道は歩道よりも滑らかに舗装されていることもあり、微細な土地のテクスチャを捉えるよりもむしろ、その土地の起伏や都市計画・交通網のあり方(直線の続く道、曲がりくねった坂道、行き止まりや一方通行の多い道etc.)といった、より大きなスケールの土地性・空間性をスキャニングする。
 電車の車窓からの撮影では、鉄道路線に沿って空間を切断し、そこをスライド移動しながら風景をスキャニングする。土地の起伏は、カメラに伝わる振動というかたちではほとんど影響しない。代わりに、連綿と続く風景が少しずつ変化していく様子が克明に記録される。街から街へ。川を越え、都市から田園地帯へ、といったように。車窓から見えるのは風景のグラデーションなのである。


 作家紹介の遠藤祐輔の項でも述べたように、郊外という広大な空間は、その全体を一望のもとに見渡すことが困難である。これらの移動撮影法を使い分け、土地のあり方や都市の構造をスキャニングした映像記録へと変換することで、広大な空間のスケールを圧縮していく。その映像の編集は、ひとつの映画を制作する作業であると同時に、郊外という場所のリズムを掴む作業でもある。
 『新景カサネガフチ』が探索的な映画であると述べたのには、このような背景がある。私は、郊外について考えたことを映画にするのでなければ、制作した映画から郊外を考えるのでもなく、映画を制作することがそのまま郊外を考えることと同義であるような方法を編み出したいと考えたのだ。