floating view 2「トポフィリア・アップデート」


floating view 2
トポフィリア・アップデート


開催日程|2011年9月30日(金)-10月12日(水)
時間|12:00-20:00(最終日-17:00)※木曜休廊
開場|新宿眼科画廊(スペース M・S・E)
東京都新宿区新宿5-18-11/TEL 03-5285-8822
http://www.gankagarou.com/
企画|佐々木友輔
出品作家|石塚つばさ、笹川治子、遠藤祐輔、門眞妙、ni_ka、田代未来子、小田原のどか、Mu_________
お問い合わせ|qspds996(a)gmail.com
ウェブサイト|http://qspds996.com/floating_view/


DM画像|Mu_________ /2010

書籍『floating view』刊行記念イベント『アーティストの目に映る郊外』開催!!


書籍「floating view "郊外"からうまれるアート」刊行記念
「アーティストの目に映る郊外」


日時|2011年10月2日(日)18:00開場/18:30開演
料金|当日¥1500 予約¥1300(ドリンク代込み)
会場|UPLINK FACTORY
東京都渋谷区宇田川町37-18 トツネビル1F UPLINK FACTORY
>>> http://www.uplink.co.jp/factory/
来場特典|「floating view 郊外からうまれるアート」を特別価格で販売します。
お問い合わせ|qspds996(a)gmail.com

予約:
このイベントへの参加予約をご希望の方は、
(1)お名前(2)人数(3)住所(4)電話番号
以上の要項を明記の上、件名を「アーティストの目に映る郊外」として、
qspds996(a)gmail.comまでメールでお申し込み下さい。


【第一部 映画『新景カサネガフチ』上映】

佐々木友輔 監督作品『新景カサネガフチ』
データ|メディア:DV/制作年:2010年/時間:67分
スタッフ|朗読:菊地裕貴/出演:石塚つばさ/音楽:田中文久/ロゴデザイン:藤本涼
概要|2011年、関東鉄道常総線に新しい駅ができて、その土地の名前も「ゆめみ野」に変わった。ゆめみ野の誕生と時を同じくして結婚し、街のめまぐるしい変化に寄り添って暮らしてきた一組の夫婦は、ある出来事をきっかけにして、街の歴史と夫婦の時間を、交差させ、かさね合わせるようにしながら追憶していく。そこに浮かび上がってくるのは、いつか夢に見た景色——累(かさね)伝説発祥の地、累ヶ淵。『夢ばかり、眠りはない』に続く、「風景」映画最新作。


【第二部 トークイベント「アーティストの目に映る郊外」】

郊外は本当に「均質で」「退屈で」「何もない」のか。その場所からうまれる作品、その場所でしか有り得ない表現を考えることが出来ないだろうか。彫刻、映画、文学、SF……様々なジャンルをまたぎ、全く異なる視点を持つ4名が、郊外からうまれるアートの可能性を議論する。
ゲスト|小谷元彦(美術家・彫刻家)、藤原えりみ(美術ジャーナリスト)、藤田直哉(SF・文芸評論家)、佐々木友輔(映像作家・企画者)


小谷元彦 odani motohiko
1972年京都府生まれ。東京藝術大学美術学部彫刻科卒業。同大学院美術研究科修了。彫刻概念をベースに身体の変容や幻影を表現する。個展にPhantom-Limb(97年、P-HOUSE、東京)、Modification(04年KPOキリンプラザ大阪、大阪)、ERECTRO(04年、山本現代、東京)、SP2”New Born”(07年、山本現代、東京)、SP4 "the specter" in modern sculpture(09年、山本現代、東京)、Hollow(09年、メゾンエルメス、東京)、幽体の知覚(10年、森美術館、東京、他3館巡回)など。国内外のグループ展やイスタンブールビエンナーレ(01年)、光州ビエンナーレ(01年)などの国際展も多数参加。03年にはヴェネチア・ビエンナーレ日本代表作家として参加。


藤原えりみ fujihara erimi
山梨県生まれ。東京芸術大学大学院美術研究科修了(専攻/美学)。著書『西洋絵画のひみつ』(朝日出版社)。共著に『西洋美術館』『週刊美術館』(小学館)、『現代アート事典』(美術出版社)、訳書にH・リード『近代彫刻史』(言叢社)、C・グルー『都市空間の芸術』(鹿島出版会)、R・アスコット『アート&テレマティークス』(NTT出版)、M・ケンプ『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(大月書店)、C・フリーランド『でも、これがアートなの?』(ブリュッケ)など。武蔵野美術大学女子美術大学東京藝術大学非常勤講師。


藤田直哉 fujita naoya
SF・文芸評論家。1983年、北海道札幌市生まれ。2008年に「消失点、暗黒の塔」で第三回日本SF評論賞・選考委員特別賞を受賞しデビュー。同年、講談社BOX東浩紀ゼロアカ道場」に参加し、デジタルビデオカメラ「Xacti(ザクティ)」を用いて撮影した映像を動画共有サイトにアップロードするといった批評活動(ザクティ革命)により注目を集める。共著に『社会は存在しない』『サブカルチャー戦争』などがある。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻博士後期課程在学中。


佐々木友輔 sasaki yusuke
1985年、神戸生まれ。映像作家、floating view 企画者。映像表現を中心に、アートプロジェクトや舞台芸術など様々な領域を横断して活動している。主な上映・展示に、バンクーバー国際映画祭、ロッテルダム国際映画祭、ロンドン映画祭、平山郁夫賞受賞顕彰展「デジャメーヴユ 既/未視感」、『夢ばかり、 眠りはない』上映(UPLINK FACTORY)、個展上映「新景カサネガフチ」(イメージフォーラムシネマテーク)など。東京芸術大学大学院博士後期課程在学中。

「floating view "郊外"からうまれるアート」展覧会カタログ+論考集、販売開始

今年2月〜3月に行われた企画展「floating view "郊外"からうまれるアート」の展覧会カタログ+論考集、販売開始しました。が、amazonでは早速在庫切れになってしまいました。現在納品中ですので、少々お待ちください。

floating view 郊外からうまれるアート

floating view 郊外からうまれるアート


なお、トポフィルのサイトでもご注文を受け付けております。
こちらは今すぐ注文で来ますよ。
http://t.co/g6z2ymv



『floating view "郊外"からうまれるアート』


編|佐々木友輔(映像作家・企画者)
デザイン|坂田希究
発行|トポフィル
A5/全208頁
1,500円(消費税別)
ISBN978-4-9905835-0-7 C0070
topo 001
著者|若林幹夫、藤原えりみ藤田直哉、丸田ハジメ、渡邉大輔、
柳澤田実、池田剛介大場正明宮台真司、+floating view 参加作家



目次構成


【図版】
 石塚つばさ
 笹川治子
 門眞妙
 清野仁美
 遠藤祐輔
 ni_ka
 川部良太
 佐々木友輔
 藤田直哉


【chapter.1 郊外的環境から生まれるアート】

 [論考] 佐々木友輔|拡張された郊外におけるアート
 [論考] 若林幹夫|“郊外”と“アート”をめぐる10の断章
 [論考] 藤原えりみ|サヴァイヴァル・ディーヴァは郊外都市となるか?
 [論考] 藤田直哉|郊外の美学の構築にむけてのメモランダム
 [コラム] 遠藤祐輔|blog「finalfilm」


【chapter.2 AR(拡張現実)としての郊外】

 [論考] 丸田ハジメ|郊外の可能性—場所論からみたfloating view展—
 [シンポジウム] 丸田ハジメ、若林幹夫、渡邉大輔、清野仁美、佐々木友輔|AR(拡張現実)郊外論
 [論考] 渡邉大輔|浮遊するまなざしのかなたに——映像圏からfloating viewへ
 [コラム] ni_ka|AR詩「2011年3月11日へ向けて、わた詩は浮遊する From東京」


【chapter.3 今この環境を捉えなおす】

 [論考] 石塚つばさ|floating view 漂流の手引き
 [対談] 柳澤田実×石塚つばさ|生のリアリティから環境を捉える——「ライン」の制作と母としての哲学
 [論考] 池田剛介|保存して解凍する
 [コラム] 田代未来子|blog「み」


【chapter.4 郊外と映画】

 [論考] 大場正明|サバービアは今も憂鬱か——ゼロ年代以降のサバービアムービーと郊外映画
 [対談] 宮台真司×佐々木友輔|風景に体温を合わせて撮る
 [論考] 渡邉大輔|imageneological tree― 映像圏でつくるイメージの系譜
 [コラム] 川部良太|田舎・記憶・地元


【chapter.5 フローティングヴュー/第一浮遊記録】

 [座談会] 石塚つばさ、遠藤祐輔、佐々木友輔、田代未来子、中山亜美|浮遊する眼差し
 [座談会] 川部良太、坂田希究、笹川治子、清野仁美、渡邉大輔、ni_ka|浮遊する景色
 [論考] 佐々木友輔|floating viewアーティストファイル
 [コラム] 門眞妙|個展「ドラマ」ステイトメン

展覧会カタログ+論考集『floating view "郊外"からうまれるアート』、刊行!

今年2月〜3月に行われた企画展「floating view "郊外"からうまれるアート」の展覧会カタログ+論考集、いよいよ刊行です。アーティスト、批評家、研究者による恊働によって、「郊外論」そして私たちの「郊外生活」を刷新し、そこからうまれる芸術表現の可能性を探ること。その思考と実践の記録です。
7月16日から始まる「THE TOKYO ART BOOK FAIR 2011」にて先行販売の予定です。ぜひ会場で手に取ってご覧ください。


『floating view "郊外"からうまれるアート』


編|佐々木友輔(映像作家・企画者)
デザイン|坂田希究
発行|トポフィル
A5/全208頁
1,500円(消費税別)
ISBN978-4-9905835-0-7 C0070
topo 001
著者|若林幹夫、藤原えりみ藤田直哉、丸田ハジメ、渡邉大輔、
柳澤田実、池田剛介大場正明宮台真司、+floating view 参加作家

「THE TOKYO ART BOOK FAIR 2011」にて先行販売!!
 開催日: 7月16日(土)、17日(日)、18日(月・祝)
 場所: 3331 Arts Chiyoda 東京都千代田区外神田6-11-4
 Z-1 Booth「floating view/あなたはいま、まさに、ここにいる」
 http://zinesmate.org/



目次構成


【図版】
 石塚つばさ
 笹川治子
 門眞妙
 清野仁美
 遠藤祐輔
 ni_ka
 川部良太
 佐々木友輔
 藤田直哉


【chapter.1 郊外的環境から生まれるアート】

 [論考] 佐々木友輔|拡張された郊外におけるアート
 [論考] 若林幹夫|“郊外”と“アート”をめぐる10の断章
 [論考] 藤原えりみ|サヴァイヴァル・ディーヴァは郊外都市となるか?
 [論考] 藤田直哉|郊外の美学の構築にむけてのメモランダム
 [コラム] 遠藤祐輔|blog「finalfilm」


【chapter.2 AR(拡張現実)としての郊外】

 [論考] 丸田ハジメ|郊外の可能性—場所論からみたfloating view展—
 [シンポジウム] 丸田ハジメ、若林幹夫、渡邉大輔、清野仁美、佐々木友輔|AR(拡張現実)郊外論
 [論考] 渡邉大輔|浮遊するまなざしのかなたに——映像圏からfloating viewへ
 [コラム] ni_ka|AR詩「2011年3月11日へ向けて、わた詩は浮遊する From東京」


【chapter.3 今この環境を捉えなおす】

 [論考] 石塚つばさ|floating view 漂流の手引き
 [対談] 柳澤田実×石塚つばさ|生のリアリティから環境を捉える——「ライン」の制作と母としての哲学
 [論考] 池田剛介|保存して解凍する
 [コラム] 田代未来子|blog「み」


【chapter.4 郊外と映画】

 [論考] 大場正明|サバービアは今も憂鬱か——ゼロ年代以降のサバービアムービーと郊外映画
 [対談] 宮台真司×佐々木友輔|風景に体温を合わせて撮る
 [論考] 渡邉大輔|imageneological tree― 映像圏でつくるイメージの系譜
 [コラム] 川部良太|田舎・記憶・地元


【chapter.5 フローティングヴュー/第一浮遊記録】

 [座談会] 石塚つばさ、遠藤祐輔、佐々木友輔、田代未来子、中山亜美|浮遊する眼差し
 [座談会] 川部良太、坂田希究、笹川治子、清野仁美、渡邉大輔、ni_ka|浮遊する景色
 [論考] 佐々木友輔|floating viewアーティストファイル
 [コラム] 門眞妙|個展「ドラマ」ステイトメン

作家紹介(10)/探索的な映画/佐々木友輔『新景カサネガフチ』


文責:佐々木友輔


 拙作『新景カサネガフチ』の制作は、2010年の秋頃、floating viewの企画立案と同時平行で行われた。私にとって、この映画の撮影はそのまま「郊外」についてのリサーチの役割を果たすものであり、脚本の執筆は展覧会のステイトメント執筆にダイレクトに結びついている。これはいわば探索的な映画であり、ある意味では、floating viewのドキュメンタリーとして、そしてこの展覧会が前提としている郊外観がどのようなものかを知って頂くためのガイドとしても観て頂けるだろう。
 『新景カサネガフチ』の物語構造や、郊外と情報環境の関係性を巡るテーマなどについては、他の執筆者による論考の中でも多様な観点から論じて頂いているので、ここではこの映画の「探索的」な側面、特に移動撮影の技法に焦点を絞って、手短に作者解説を行いたい。


 郊外に対して私たちが植え付けられた先入観というものは、簡単に変えることの出来るものではない。郊外を観察するという目的を持った時点で、私たちは無意識のうちに国道沿いのファミレスを想像し、新興住宅地の白壁を眺め、これまで描かれてきた郊外像とかさね合わせる。目の前の現実を既存の言説の側に引き寄せ、「均質で何もない郊外」というイメージを強化してしまうのだ。
 そのようなイメージから逃れ、郊外のまったく別の姿を知るために、ビデオカメラというツールは非常に有効に働く。人間の視覚の論理とは異なる論理(機構)で対象を見つめるビデオカメラの眼差しは、私たちの見ていなかった/見ようとしなかったものも事務的に、淡々と記録し続ける。映像を見返してみると、撮影時には気づかなかった様々なコト・モノ、そして場所の特性が記録されていることに気づくだろう。『新景カサネガフチ』の撮影は、このようなビデオカメラの機能を生かして、私たちの目には見えづらい場所のあり方を浮かび上がらせることを意図している。そしてその効果をより高めるために試みたのが、異なる複数の移動手段を用いた撮影スタイルだ。


 この映画では主に、手持ちカメラで歩きながらの撮影、自転車に乗っての撮影、自動車の助手席からの撮影、電車の車窓からの撮影、といったように4つの移動撮影法を使い分けている。これらの違いは、言い換えれば映像に伝わる「手ブレ」の種類の違いであり、撮影者と被写体=場所との関係性のあり方の違いを鮮やかに示している。
 手持ちカメラで歩きながら行う撮影では、何よりもまず撮影者の歩行のリズムが「手ブレ」として記録される。ヒトは左右の足を持ち上げて歩くため、その上下運動がカメラに伝わる。加えて、被写体を前にしての迷い(どの対象を追うべきか、引いて撮るべきか、寄って撮るべきかetc.)や、歩き続けることでの疲労、カメラを持ち続ける手の震えといった要素が混入してくる。ここでは、ある場所、ある環境に置かれた撮影者の身体の動きが記録されていると言えるだろう。
 それに対して自転車に乗っての撮影では、歩行の上下運動のリズムは当然のことながら失われることになる。自転車の両輪は地面に密着して回転し、その土地のテクスチャ(滑らかなアスファルト、でこぼこした石畳、砂利道etc.)をダイレクトにカメラを持つ手に伝える。自転車という移動手段は、ここでは土地のテクスチャを手ブレ映像へと変換するスキャナの役割を果たしている。
 自動車の助手席からの撮影は、四輪で自転車よりも安定した走行をすること、また、多くの場合車道は歩道よりも滑らかに舗装されていることもあり、微細な土地のテクスチャを捉えるよりもむしろ、その土地の起伏や都市計画・交通網のあり方(直線の続く道、曲がりくねった坂道、行き止まりや一方通行の多い道etc.)といった、より大きなスケールの土地性・空間性をスキャニングする。
 電車の車窓からの撮影では、鉄道路線に沿って空間を切断し、そこをスライド移動しながら風景をスキャニングする。土地の起伏は、カメラに伝わる振動というかたちではほとんど影響しない。代わりに、連綿と続く風景が少しずつ変化していく様子が克明に記録される。街から街へ。川を越え、都市から田園地帯へ、といったように。車窓から見えるのは風景のグラデーションなのである。


 作家紹介の遠藤祐輔の項でも述べたように、郊外という広大な空間は、その全体を一望のもとに見渡すことが困難である。これらの移動撮影法を使い分け、土地のあり方や都市の構造をスキャニングした映像記録へと変換することで、広大な空間のスケールを圧縮していく。その映像の編集は、ひとつの映画を制作する作業であると同時に、郊外という場所のリズムを掴む作業でもある。
 『新景カサネガフチ』が探索的な映画であると述べたのには、このような背景がある。私は、郊外について考えたことを映画にするのでなければ、制作した映画から郊外を考えるのでもなく、映画を制作することがそのまま郊外を考えることと同義であるような方法を編み出したいと考えたのだ。

作家紹介(9)/ 生きる環境、生かされる権力、生きている作品/石塚つばさ『Inlet』『mother』『PANGAEA』


文責:佐々木友輔


 石塚つばさは、絵画やインスタレーションを中心とした作品発表に加え、植物に関する勉強会と制作活動を兼ねたプロジェクト「オニワラボ」の展開など、多岐にわたる活動を続けている。彼女は、企画立ち上げの段階からfloating viewに関わり、また、私がここで描こうとする郊外観や場所観の元となる様々なアイデアを提供してくれた作家であり、実質、この展覧会の共同企画者と言って良い存在である。


 石塚の制作の根底にあるのは、植物の育成や観察を通して培った、生物をラインとして捉える眼差しである。「動物や植物には皆、1本のラインが通っており、それを軸に身体が構成されている。そのラインを掴み、変形させていくようなやり方で制作をしたい」と彼女は言う。例えば雑誌などの切り抜きを用いた絵画作品のシリーズや、シンポジウム『西江雅之の世界ボーダーを超えて』 のフライヤーデザインは、一見すればそこに描かれているのは実在する動植物でない(そもそも生物かどうかさえ分からない)ことは明らかであるにも関わらず、まるでどこかで偶然見つけた植物を観察して描いたボタニカル・アートのように思えてくる。見たことのない生物ではあるが、決して(人間の想像力としての)奇形ではなく、フランケンシュタイン的な継ぎはぎの身体にも見えない。そこに描かれた生物のような何ものかは、不気味な姿をしながらも、それがさも当然であるかのようにあっけらかんとして佇んでいる。
 このように、コラージュという技法を用いているにも関わらず、パーツの組み合わせによる記号的な身体理解とはまったく異質な彼女の方法は、前者がグラフィックソフトの「Photoshop」的コラージュ(画像の継ぎはぎ、コピー&ペーストによる画面構成を行う)だとすれば、「Illustrator」的なコラージュ(ベジェ曲線と呼ばれる、数式によって記述されたラインを用いて描画する)であると言うことも出来るかもしれない。コラージュする素材自体の内にあるラインをつかみ取り、折れてしまわないさじ加減で曲げたり伸ばしたりして変形し、他のラインとつなぎ合わせていくことで、新たな生物のラインをかたちづくっていく。逆に言えば、ラインさえつながっていれば、扱う素材が生物であろうがなかろうが、結びつける素材の種類が異なろうが、彼女は有機的な生物的な運動の流れをつくりだすことが出来るのだ。


 しかし石塚が、こうした感性——野性的直感とでも言うべきもの——を、そのままストレートに表出することは少ない。彼女が生まれ育った茨城県守谷市は、典型的な郊外都市として開発が行われ急成長した街である。幼い頃にはまだ空き地や緑が多く、古い町並みが広がっていた風景は、次々にショッピングモールが建設され、2005年にはつくばエクスプレスが開通するなど、めまぐるしい変化に晒されてきた。区画整理され平坦にされていく土地や、その環境に応じた人びとのライフスタイルの変化など、石塚は自らの郊外経験を通して社会学的・行動心理学的な観察眼を持つことになる。
 彼女がこの問題意識を初めてかたちにしたのが2004年に発表した『装置:大こたつ』である。展覧会場の通路の中心に設置された円形の巨大なこたつは、一見シンプルな形状だが、隣り合う人と人との距離や、座った時の視線の方向などが緻密に計算されており、訪れた観客にそこを迂回して進むことを強いたり、こたつに入って一休みすることを促したりする。最も効果的な場所をピンポイントに狙ってこたつという装置を置くことで、観客の移動の流れや関係の在り方を変化させるのである。
 これは、東浩紀のいう「環境管理型権力」をアートの文脈に持ち込む試みであると言えるだろう。環境管理型権力とは、命令や訓練によって相手を無理に従わせるのではなく、環境そのものを設計することによって無意識のうちに人の心理や行動をコントロールする権力形態である。そうした設計のあり方は「アーキテクチャ」とも呼ばれ、情報工学や人間工学の発展と共に、現代的な社会設計・権力のあり方として注目を集めてきた。石塚は、私たちの行動の自由を制限するこの「見えない権力」を作品化=可視化することで、むしろ私たちの感性を触発し、周囲の環境への意識を高める装置へと転換して見せたのだ。


 主に絵画作品を通して描いてきた生物のライン=形態というテーマと、区画整理させていく郊外体験や人間の行動パターン観察の中からうまれた環境管理型権力というテーマ。この二つのテーマをかさね合わせ、ひとつの作品のもとに統合することが石塚の次なる試みとなった。そのために彼女が選んだのが、「芝生」という素材と「家具」というモチーフである。芝生は、生物でありながら遠目に見れば均質なテクスチャを持っており、フローリング材のようにロール状にして販売されるなど、限りなく人工物に近い扱いをされる自然物として、特殊な存在感を放っている。しかしそのイメージとは裏腹に、維持管理には専門的な知識や経験を要する扱いづらい植物でもある。
 2007年に石塚は、この芝生を用いた家具のシリーズの第一弾である『PANGAEA』(パンゲア)を制作する。鉄で組まれた構造の上に芝生を貼り、持ち運び座れる椅子として構想されたこの作品は、並べていけばシュミレーションゲーム『大戦略』シリーズのマップのように六角形に区分けされた巨大な土地となる(『PANGAEA』はこれまでに約70セット制作された)。並び替え、組み替えていくことで様々な形態へと変貌する移動大陸である。
 同様の問題意識を引き継ぎながら、生物のライン=形態というテーマをより強く打ち出したのが2008年の『mother』である。この作品は、赤血球のように中心のくぼんだ円形の椅子であり、芝生で構造の全面が覆われている。『PANGAEA』のような移動・組み合わせは行えない代わりに、その形状——特に円の曲面や中心の窪みへと向かうなだらかな勾配など——に細心の注意が払われ、それ自体がひとつの生物であるような形態を持たせていると同時に、座り心地や、その上に寝転がった時の身体の沈み込み方などが周到に計算されている。『装置:大こたつ』ではそこに座る者たち皆の視線が内側中央に集まったが、『mother』では逆に外側に向かうように設計されていることも指摘しておくべきだろう。
 『mother』に関して興味深いエピソードがある。横浜のBankART Studio NYKでこの作品が展示された時、他の作家の作品に厳しい目を向け辛辣な批評をしていた集団が『mother』の位置まで来ると、そこに腰かけ、先ほどとは打って変わって穏やかな表情になり、談笑を始めたのだ。瞬時にして場の空気が変わった。そして結局最後まで、この作品に関する批評の言葉はないまま、彼らは立ち去っていった——。この時『mother』は、作品とすら認識されないほどに環境の中に溶け込み、まさに「見えない権力」、環境管理型権力として機能したと言えるだろう。


 石塚がfloating viewに出品した『Inlet』は、『PANGAEA』と『mother』それぞれの特色が統合されており、芝生を用いた家具シリーズの集大成的な作品になっている。彼女はfloating view全体の会場構成を担当し、他作品の配置との関係性を考慮しながらこの作品を制作した。「Inlet」が「入り江」を意味する言葉であることを考慮するならば、これは、芝生の椅子という造形物単体で成立するものではなく、展覧会場の空間全体を通して観て初めて成立する作品であると言える。芝生の椅子を陸地とし、その周囲の空間を海洋とする、その間にある関係性のあわいが入り江=『Inlet』なのである。
 『Inlet』は『mother』の円形の内側にあるラインを掴み、奥行きのある長方形の会場に合わせてぐにゃりと引き延ばしたような形態になっている。CADは用いず、ある程度の形態をつくった後に、グラインダーなどを用いて手探りで成形していく、彫刻的な作業を通して、微妙な曲面やバランスが整えられている。サイズは全体で長辺6m、短辺最大2m50cm。これが1m単位で分割された14のユニットによって構成されており、それぞれ下部の目立たない位置に取り付けられたキャスターによって好きな位置に移動させることが出来る。
 また、各ユニットはキャスターによる移動のみならず、構造自体を解体してコンパクトにまとめることが出来るように設計されている。解体したパーツを別の場所へ移動させて、再び組み立てて芝を貼ることで、様々な条件の場所で簡易かつ迅速に作品を設置することが出来るのである。これは、在庫保管場所の省スペース化や配送トラックへの積載個数の増加を意図して北欧家具メーカーのIKEAが導入した、顧客自身が自宅で組み立てる「フラットパック」(平らな梱包)と呼ばれる方式を美術作品にまで適用したものであると言えるだろう。フラットパックと各ユニットの移動という高い機動性によって、『Inlet』はまるで突如空間に出現するかのように、場所から場所へと移動する。家具への擬態、そして『PANGAEA』で試みられた「移動大陸」というモチーフは、ここにおいてさらに先鋭化されていると言えるだろう。
 『Inlet』は、均質なホワイトキューブに固有性をもった土地を持ち込み、その形態と配置が、人の移動する流れをつくりだす。観客は『Inlet』の周囲を回ったり、ユニットを移動させて、そこに座って作家の作品を観たりする。3月5日に行われたシンポジウムの際には、ユニットの配置を変えて客席や機材卓として用いられたほか、会期中不定期開催の清野仁美による作品『風人なるものに関する収集』の「語り」のための椅子としても使用された。floating viewにおいて起こるアクションはすべて、この作品から——この作品を介して——始まるのである。


 しかし石塚は、家具としての機能や心地よさのみを追求するわけではない。むしろそうした用途と対立するような要素が、設計の段階からこの作品に含まれている。
 『Inlet』を構成する各ユニットのスケールの基準となっているメートル法は、地球の北極点から赤道までの子午線弧長の1000万分の1として定義される長さの単位である。これは、一見キリの良い数字にも思えるが、人間の身体というスケールを基準として考えると、決して収まりの良い数字ではないことに気づくだろう。家具やそれを組むための資材にはそれぞれサイズの規格があり、メートル毎のサイズで売られていることはほとんどない。地球を基準としたスケールは、人間には収まりが悪く、扱いづらいのだ。石塚はあえてそのメートル法で分割したユニットを作成することで、人間のスケール感とのズレ、違和感を作品に持ち込んでみせる。
 また、『PANGAEA』は六角形という幾何学形態であったために組み合わせの自由度が高く、ユニットをいくらでも増やすことが可能であったが、『Inlet』ではひとつの有機的な形態を分割してユニット化しているため、その分組み合わせや配置の自由度が制限されている。さらに分割された断面には、一般的な家具以上に深く黒ずんだ色味の(血を思わせる)赤色が塗られており、一度位置を移動させても、何となくもとの場所に戻さなければという気にさせられる。こういった箇所にも、家具としての収まりの良さへの作家の反抗の意思——可塑的であると同時に不可逆でもある形態の志向——が見てとれるだろう。
 そもそも、floating viewについての論考で藤田直哉が指摘するように、水分を含んだ芝生は、座ると泥や汚れがつく。作品が置かれた会場には生きた植物特有のにおいがする。視覚的に見れば人工的な印象を与える芝生(座るまではそれが天然芝だと気づかず、人工芝だと勘違いする観客も多かった)も、実際にそれに触れてみると、生物であることが必然的に持つ生々しさ、そして融通の利かなさがあらわになるのだ。この作品は、フラットパックという効率化を突き詰めた家具に擬態しておきながら、毎日水をやり、世話をしなければ枯れてしまう芝生に覆われているという、相反する要素を同時に持っている。環境管理権力が、生物の行動パターンや心理に依存するからこそ効力を発揮すると同時に、そのようなシステムであるが故に例外状況のおきやすいフラジャイルな権力でもあるという二面性を石塚は正確に表している。


 東日本大震災が起こった直後、作品の被害状況を確認するために会場に駆けつけると、その日の朝にはぴったりと基本形態で設置されていた『Inlet』は、揺れでキャスターが動いたのだろう、ユニットが5cmほど移動して、中央縦のラインを軸にしてまっ二つに割れたようなかたちになっていた。それはまるで、地震によって大地に亀裂が入ったような光景だった。
 会場のトーキョーワンダーサイト本郷は臨時休館となり、『Inlet』は約5日間、水やりなどの世話をすることが出来ないままそこに置かれていた。地震から6日目、展覧会の再開が決まりメンテナンスのために会場に入ると、『Inlet』は水分不足のために芝が枯れたり、逆に保水のために覆ったビニールによって通気性が悪くなりカビが生えるなど部分的にダメージを受けていた。しかしそれによってこの作品が価値を失ったというわけではない。『Inlet』は震災の前よりもむしろ、その存在感を増しているように見えた。
 私は以前、戸川純のキャッチコピーをもじって石塚の作品を「切ると血の出る現代美術」と評したが、『Inlet』においても同じことが言える。用いられている芝生が正しく管理され、人工的なテクスチャを保っている状態が必ずしもこの作品にとってのベストコンディションではない。所々にダメージを受けた芝生は、ひとつの作品の上に別個のビオトープを、固有の地理性を形成し始める。荒れた大地、生き生きとした草原の広がる大地、日(照明)が当たらないひょろひょろとした芝の伸びる大地——。それはまるで、ホワイトキューブの外に広がる地表の縮図のようである。死にゆくことによって初めて、制作者の管理の元から離れ、うまれる独自の生。石塚がここで試みているのは、作品においてそのような生を描くことではなく、そのようにして「生きている」生物としての作品を、その周囲の環境と共に、立ち上げることなのだ。

作家紹介(8)/映像環境を遊泳するための地図/渡邉大輔「映像圏(imagosphere)」『imagenealogical tree―映像圏でつくるイメージの系譜』


文責:佐々木友輔


 floating viewに欠かせないキーワードのひとつである「情報環境」を、映像・映画の観点から読み解こうとしているのが渡邉大輔である。彼は「映像圏(imagosphere)」という概念を提唱し、現代の映像文化が示す記号的特性やリアリティについて論じている。YouTubeニコニコ動画などの動画共有サービス、商業映画にドキュメンタリー、アニメや実験映画まで、あらゆる種類の映像を縦横無尽に横断し、限りなく膨張を続ける現在の映像環境を俯瞰しようとする野心的な取り組みである。


 渡邉は、まさに今ある現状や変化の起こりつつある場所に身を投じつつも、自らの取り扱う対象を「古い想像力」「新しい想像力」のようなかたちで分類し、一方を否定してもう一方を持ち上げるような方法を徹底して避ける。『サブカルチャー戦争』刊行記念のトークイベントやその後のtwitter上での関連するやりとりでも、蓮實重彦を中心とするシネフィル的な映画の見方を否定しようとしているのかという問いに対して決して首を縦に振ることはなく、シネコンやロードサイドのレンタルビデオショップを通した映画体験もシネフィル的な映画体験もあくまで等価なものとして、共に重要なものとして捉えたいのだという姿勢を崩さなかった。
 様々な位相にある映像環境をめぐるキーワードをあくまでもフラットに、一元的に配置していくことにこだわるのは、実際に映像環境がそのように組織されているという核心に基づくのだろう。キットラーの『グラモフォン・フィルム・タイプライター』などでも予言されたように、様々なメディアは今、情報環境の上で統合されつつある。もちろん、メディアによって統合しきれない余剰、統合することによって失われる重要なものがあることは確かだ。しかし、たとえ擬似的であれ、それが「映像」である以上、形式変換すればすべてQuickTimeで再生可能で、MAD動画の「素材」として扱い得るというリアリティがうまれ、実際にそのようにして映像が受容されていることは明らかだろう。また、フェイク・ドキュメンタリーや3D映画、マーチャン・ダイジングの隆盛は、これまでは「映画」の外にあると思われていたものも含めて捉えなければ、理解出来ない状況、評価出することの出来ない映画を数多くうみだしてきた。そのような映像環境のあり方を、渡邉は自らの語り口・文体の上でもなぞり、実践してみせる。
 もちろんこのような仕事が可能なのは、これまでの映画史的蓄積に向けてはっきりと眼差しを向けているからこそである。戦前期の日本の映画教育や児童観客を研究テーマとして博士論文を執筆するなど、彼の研究は現代の映像メディアに留まらない。1900年代の玩具映画(家庭内映写機)に映画のモバイル化の契機を見出し、1940-50年代のドライブイン・シアターまで遡って映画文化と郊外文化の結びつきを探るなど、様々な時代・場所の映画史を関係の線で結び、「現在」という一平面へとかさね合わせていく。
 こうして時間軸を失った映像の群れは、必然的に空間に広がっていくしかない。ある限られた区域、周囲を囲ったかたちを表す漢字「圏」を用いて「映像圏」という造語をうみだしたことからも分かるように、時間芸術である映画を単線構造のテキストとして記述するにも関わらず、渡邉の書く論考は極めて無時間的で、空間的な特性を持っているのだ。


 この、テキストの空間性をより強調した「地図」を制作してほしいという私の希望に応えて彼が制作してくれたのが『imagenealogical tree―映像圏でつくるイメージの系譜』である。
 会場に設置されたこの作品は、一見、展示された各作家の作品を解説するキャプションのように見える(し、実際にそのように読むことも出来なくはない)。しかし注意深く読み進めてみれば、彼の言葉は、ここでは、他の作家たちの作品よりも上位に立って一方的な論評を加えるようなものではないことに気づくだろう。同じ会場の中で、対等な立場で並べられた状態で、周囲の作品に干渉したり、逆に干渉されたりする(具体的な方法こそ異なるものの、批評がその対象と直接対峙させられるという意味では、藤田直哉の「ザクティ革命」と共通する部分もあると言える)。会場内の個々の作品の意味合いをずらしたり拡張したりしながら、会場の外に広がる様々な事象と結びつけていくハイパーリンクとして、彼の作品は機能するのだ。ここでは、映像圏という概念に基づいて書かれたテキストそのものが映像圏的状況に組み込まれるという入れ子構造がうまれている。


 彼の試みは、何よりもまず、実制作者にこそ読まれるべきだと思う。映像圏的状況が広がり、受け手の側は(無意識であれ)それに応じた受容形態をとりつつあるのに対して、従来からの映像の作り手の意識(や業界の構造)は受け手の意識に追いついていない。映画監督、映像作家、PVなどのクリエーター、ゲームクリエーター、テレビアニメなどのアニメーター、アートアニメーション作家、メディアアーティスト——これらの間にはまだまだ、大きな壁がそびえ立っている。一部のフェイク・ドキュメンタリーやウェブ上での映画の公開、ウェブブラウザを利用した映像作品など、領域を横断・攪乱するような作家も出てきているが、思いつきによる一過性の取り組みに留まるものも多く、全体としてみればまだほんの一握りに過ぎない。
 また、現在映像制作を行う者・志す者の多くはおそらく、映画の文法書や理論書よりもむしろ、finalcutやpremier、あるいはimovieなど映像編集アプリケーションのアーキテクチャや、そのマニュアルに影響を受けている。ファイル形式変換の容易さの度合いや、撮影・編集機材の互換性によって、つくる作品内容そのものが影響を受けたり、気づかれないところで膨大な映像記録が後世に残らず消え去ろうとしている。
 こうした(ある意味で)環境管理的なゾーニングが行われている映像制作環境に対して、渡邉の活動は別の回路を指し示してくれるだろう。『imagenealogical tree』について語ったところとは矛盾するようだが、アーキテクチャによるゾーニングの影響を受けない場所から、映像環境を俯瞰して眺め、人力で関係の線を結んでいくことによって描かれた「映像圏」は、アーキテクチャ思考では気づくことの出来なかったものとの出会いや、実はすぐ傍にあったものとの出会いを与えてくれる。彼の論考、そして活動の全体は、映像制作者が領域を横断し、映像環境を自在に泳ぎながら制作をするためのマニュアル、あるいは地図なのである。