郊外の美学の構築にむけてのメモランダム

藤田直哉


 郊外は都市の回復ゾーンなのか、それとREM睡眠に入る前の精神状態のように、受動的でありながら想像力にあふれた精神領域への純粋な前進の一歩なのか? 手に負えない都市の身体とは異なり、郊外の身体は完全に飼い慣らされている。郊外は巨大な動物園となり、住人の身体が有毛の哺乳動物のサンプルとなっているのである――J・G・バラード(木原善彦訳)


 モダニズムには「都市の美学」という側面があった。ここでモダニズムと言うときに想定しているのは、ダダ・シュルレアリスムや、T・S・エリオットらのような、都市が出現し、交通が出現し、電話などが出現し、工場が出現し、その変化を作品の中に取り込もうとした一連の表現のことを想定している。ダダには第一次世界大戦における戦車や毒ガスなどの兵器の出現が大きく影響を及ぼしていたし、シュルレアリストたちも録音技術や映画などの影響を強く受けた。大きく言えば、社会を構成する技術の大規模な変化がもたらした人間への影響を真剣に受け止めた作品群であった。
 では、「田園の美学」と対比されるべき「都市の美学」にさらに対比されるべき「郊外の美学」というものは存在しないのだろうか、というのが、「floating view――郊外から生まれるアート」と題された本展の企画趣旨である。その「田園」「都市」「郊外」という三項目を、単純にプレモダン、モダン、ポストモダンに割り振るのは当然のことながら間違えている。本展は情報環境や建築工学・人間工学によってアップデートされた人間の感性・感覚を擁護するという点で、技術による進歩や新しさを価値の源泉とするような「モダン」の枠組みに片足を突っ込んでいることも確かであろう。大きく言えば、この展覧会は「郊外」と「情報」を巡る21世紀的な感性と問題系を、如何に「形にするか」ということを目的にしていると言っていいだろう。
本展が模索し、表現しようとしている「郊外の美学」とは、そのような「郊外」という「環境」が、自然と物理的環境と情報環境とを同時に意味するようになってしまった「感性」が、受容と創造の両方にどのような影響を与えているのかを巡るものである。実際の展示が「創造(形)」だとしたら、このカタログは「受容(価値判断)」を巡るものとなるだろう。本論は、本展で提示された「郊外の美学」の検討を目的とするメモランダムである。


 筆者は北海道札幌市のニュータウンで育った。泥炭地を埋め立てて作った、整然とした土地であり、中流階級の小金を持った人々が集まる場所であった。景観規制があり、時々CMが撮影されるような土地である。冬になると、スタッドレスタイヤのCMによく現れる。
 そのようなニュータウンの郊外が、僕は基本的にあまり好きではない。国道や道道沿いには、「ファスト風土」に典型的な建物が並んでいる。歴史性や情緒性を無視した設計の都市や住宅地は根本的に人間を疎外しているように感じられる。「都市の疎外」ではなく「郊外の疎外」があった。故郷の希求という心情も、故郷の喪失を嘆く気持ちも僕には存在しない。東京にいるほうが落ち着くぐらいである。
 その上で、なお「郊外の美学」の可能性があると言おうとすると、どうしてもアイロニーになったり、キャンプ的な面白がり方になってしまいそうになる。
例えば、広大に広がる平野の中に巨大な中古車販売所がある。そこに夜中になると巨大なネオンサインが灯る。真っ赤な文字で「軽」と。暗黒の中に浮かび上がる真っ赤なネオンの「軽」は、なにか変な美学を醸し出しているような気がしないでもない。でも、僕は馬鹿にしているのかもしれない。あるいは、道路にある巨大なボーリングのピン。車から見て一瞬で気づくことを目的とした広告なので、歩行者が見ると単に異様なだけのオブジェである。あるいは高速道路沿いにある、ペラペラの西洋風の城=ラブホテル。その全てに心の底からうんざりした末に湧き上がって来る面白みの感情を「美学」と名づけていいのかどうか僕には判断がつかない。単に「と学会」とか『VOW』のような面白がり方のような気がするが、それもそれで一つの美学なのかもしれない。
 とはいえ、そういう目線で見て「ダメさを愛でる」かのような美学にはあまり加担したくない。その加担したくないという気持ちは、美学的なものというよりは、倫理的なものである。それはほとんど郊外を対象とした搾取と簒奪の目線であり、郊外にロマン主義的心性を生み出してしまうのではないかと思うからだ。
保田與重郎は「日本の橋」において、立派な西洋の橋と比べて日本のみすぼらしい橋の方が良いと述べた。駄目なもの、劣悪なもの、弱いものが、それらを脳内・美学内部で転倒されるルサンチマンに加担するような美学の構築に僕は手を貸したくない。それはひょっとすると左翼的なクリシェである「ロマン主義からファシズムへ」という構図に僕が毒されすぎて、過剰反応をしているだけに過ぎないのかもしれない。しかし、僕は郊外型ロマン主義には加担しないという立場に立つ。よって、本論においてはこの「(ダメさを愛でるという)アイロニカルな美学」は徹底して禁欲する。
 とは言うものの、郊外の感性にある種の「だらしなさ」があり、「受動的でありながら想像力にあふれた精神領域」がそこに表現されているという言説もあるのかもしれない。本展の作品のいくつかには、そのような「だらしなさ」が(論者の作品も含めて)見受けられるかもしれない。
しかし、この「だらしなさ」にはいくつかのレイヤーが、それぞれある。「だらしなさ」の対義語として仮に「意識的」という言葉を使うとすると、その二つを巡るスペクトラムを便宜的に八つに区分できる。創作の対象とするものを「素材」と呼び、それを製作する作家の心理を「態度」と呼ぶ。さらにそれらの作品を受容というファクターがある。


素材    態度    受容
1、意識的   意識的   意識的
2、意識的   意識的   だらしない
3、意識的   だらしない 意識的
4、意識的   だらしない だらしない
5、だらしない 意識的   意識的
6、だらしない 意識的   だらしない
7、だらしない だらしない 意識的
8、だらしない だらしない だらしない


1は、最も緊張感のある作品制作と受容の場である。2は、単に受容者がいい加減な状態である。3は作者がダメなのに鑑賞者が必死に意味を見つけようとしている場合。4は、素材だけがよくて全てどうしようもない。基本的にこれらはあまり今回の論には関係しないので、考察から除外する。
5は、郊外のだらしなさを作家が意識的に作品にし、その意義がしっかりと受け取られる幸福な状態である。6は、そのような作品を、いい加減に観られた場合である。7は、どうしようもないものに無理やり意味を見出す、先ほど挙げた『VOW』の美学である。8は、一番アヴァンギャルドな気がするが、ustreamの放送や、ニコニコ生放送などの、話すことを何も考えていなくて、喋り方の抑揚なども聞き取りにくいものを、家でくつろぎながら見ているときなどを想定している。(余談ながら、筆者の作品はこの「だらしない受容」を想定して作られているので、美術として意識的に見られるのに適していない)
おそらく、郊外の美学や、それに隣接するコミュニティ・アート、ロスジェネ芸術、ニコニコ動画やネットの作品を巡る言説の価値判断で揺れているのは、この8種類に分類できる。その「だらしなさ」を否定するのは容易い(し、僕も五分の二ぐらいそういう気持ちである)。しかし、本展が目指しているのは、実現できた度合いは各作家によって異なるとしても、5であろう。郊外という「だらしない」「汚い」とされている対象をどこまで意識的に作品化できるかという課題がそこに真剣に存在していたとまずは受け取ることが重要である。その上で、僕はここでは評論家として、なるべく「意識的」に作品や展覧会を注視していきたい。


 「郊外の美学」と言ったときに真っ先に意識するのはヤンキー文化だろうか。五十嵐太郎編著『ヤンキー文化論序説』にはそのような文化の持つ美学の断片が見えていた。さらには速水健朗の『ケータイ小説的。』に描かれたようなケータイ小説浜崎あゆみなどが郊外の美学を体現するものと考えられるだろうか。あるいはパチンコ台などに現れている「美学」を分析するべきなのかもしれない。
とはいえ、これらは「郊外」だけではなく「地方」文化も含んでいる。「地方」と「郊外」には微妙な差異がある。「地方の郊外」もあるというまた面倒くさい部分があるのだが、基本的に本論では便宜的に郊外を二つの軸で分ける。「東京の郊外」と「地方の郊外」、「郊外の均質性」と「郊外の異質性」とにである。東京の郊外と地方の郊外には違いがある。そして郊外は均質化されているとは言え、やはり差異があることも確かである。それらは時に重なるが、基本的には分ける必要がある。
「郊外」の表象の仕方にも二種類がある。一つには、それがつるっとした安全でクリーンな異質なものを排除する、それが故に安心である空間であるというものである。伊藤計劃のSF小説『ハーモニー』はそのような郊外を意識した作品であった。多くの美少女ゲームの背景となっているのもこのクリーンな郊外である。ケータイ小説の多くに描かれる郊外もこのようなクリーンな郊外であるが、ケータイ小説の場合はいじめやレイプなどの殺伐とした要素が入り込む。
もう一方の表象の仕方は、郊外をひたすら陰惨で殺伐とした犯罪多発地帯のように描くものである。三浦展編著の『地方がヘンだ!』の写真や、富田克也の映画『国道20号線』に描かれる郊外はこちらに該当するだろう。
この「クリーンな郊外」と「殺伐とした郊外」は、郊外の二面性である。それは単に同じ場所が違う表象をされているという表現方法だけの問題ではない。郊外とはいえ、所得の階層やデベロッパーの志向などなどの要因が積み重なり、場所によって違う現実が存在するのだ。
 これらを「郊外」という言葉で一括りにしていいものなのか。生活スタイルやそこに入り込んでいる資本などによって均質的な構造になっているとしても、「郊外」として一括りにしてその「美学」を発見しようとすることは困難が伴うだろう。「郊外」という言葉が含んでしまう様々な多義性の困難がまず立ちはだかる。
そのような困難に、この展覧会(floting view)はどう立ち向かったのか。実際の作品を参照しながら、如何にして「郊外の美学」を構築しようという試みが行われたのかを見ていきたい。


 身も蓋もない事実から述べていくが、本展覧会の企画の中心となった佐々木友輔と石塚つばさは東京藝術大学先端芸術科に(片方は現役で、片方は過去に)属しており、その校舎は茨城県取手市にある。関東平野が広がっているのが校舎からは見える。東京に出る際は常磐線に乗ることになる。その校舎の場所と沿線の光景が、この展覧会を開催する動機になったり、作家が制作を行う内面に与えた影響は大きいであろう。つまり、この展覧会は、藝大先端科が存在する取手と、その近くに住んでいるであろう学生の感性が大きく反映されたものである。その前提の上で、経済的な側面も含めて、本展覧会のコンセプトに大きく関わった石塚の作品を見てみよう。
地域活性化のためにアートプロジェクトが多く催されており、「アート」の需要がそのような場所で生じているという経済構造上の問題も指摘しておくべきだろう。そのような「地域活性化」のプロジェクトでは、土地の「特色」が強調されるような作品が作られていく。それらは地方ならではの空間を生かした作品であることも多い。すなわち美術用語で言う「サイト・スペシフィック」な作品である。
 石塚の作品は、それ自体が地形を創り出す作品であり、本来は屋外の空き地や建物などに依存し、「作品」を環境との相互作用で提出しようとする清野のパフォーマンスを「生かす」効果を持っている(清野自身のパフォーマンスは口承文芸の伝統を身体に転写させ、移動可能にし、身体内部でバグらせるというものである)。
サイト・スペシフィックな作品がホワイト・キューブの中で効果を発揮しないのならば、その「サイト」自体を構築しようという意図を石塚の作品は持っている。グリッド的に均質化された「地形」が擬似「固有性」をその場に作り出すのだ。
郊外・地方型資本の企業が東京に入り込んでいる現状と重ねるようにして、ホワイト・キューブ=東京中心の美術の体制の中に、そこからはみ出す作品を押し込もうとしている。そのような資本の側面もまた作品内部で反映する作品である。
 石塚の作り出す擬似固有性は、大規模宅地造成をし、グリッドのように道路を敷いて、似たような住宅地を並べるような、デベロッパーの力を模倣したかのようである。他の作品が生きる環境自体を整える彼女の作品は、作品を「生かす」とともに、完全に包囲し、依存させるという性質も持っている。この二重性は、展覧会全体の持っているある不穏さにも深く繋がっていく。


 この展覧会の企画者の佐々木友輔は『新景カサネガフチ』という映画を制作している。架空の家族の未来を描き、ニュータウンを肯定的に描こうとした『新景カサネガフチ』は、情報や映像と現実を「重ね合わせる」意図を持った作品である。この作品はまるで、情報の中では実際に「幽霊(映像)」は住んでいるのだ、と言いたいかのようである。自己と映像とが乖離することの象徴であるかのようなこの作品は、自身の分身=情報的身体を「スクリーンの中」に居住させる/させたいという感覚を強く感じさせる。
この佐々木の主題とする「重ね合わせ」こそが、本展の石塚つばさによる会場設計にも反映されている。作品が単体で自立せず/できず、それぞれ連携しているのだ。会場設計自体で一つの作品を救っている、というだけのことではない。例えば遠藤の写真は一枚一枚の写真の並びで一つのストーリーを作っている。それと同時に写真の中で指を指している先には笹川の『うつろ戦士』がある。『うつろ戦士』は石塚の『Inlet』の上に少し被さるように飛んでいる。そして会場の壁の四方を上下に分断する遠藤の写真自体は、強烈な一本の線となっている。その線に連携されるように、田代の文章やni_kaの作品が提示される(ni_kaの作品の両隣は女子高生の写真になっているという微妙な連携もある)。そのラインは渡邉の「imageneological tree」に接続され、渡邉の考える「情報環境・ネットワーク上の映像」などを「本物の糸」で結んで表現している。そしてその糸の一部が拙作に繋がっており、立って見るには辛いその映像を石塚の『Inlet』が椅子として機能して救済してくれる。極端に見づらい高さと低さに置かれた藤田の作品は、単にお客さんの身体に物理的なダメージを食らわせることを目的としており、その結果石塚の作品に座らざるを得ないというところに追い込むという補完的な効果を持っているが、不必要に水を含まされたその『Inlet』は、座った人間の尻を濡らすというとても悪意のある設計となっている。(念のために言っておくと、極端に身体に負荷を掛ける展示にするように言ったのは僕ですが、座ると濡れるのは僕の指示ではありません)
 作品同士が、会場設計の時点で連携しあっている。そのような「見えない会場設計」が本展の肝である。実際の土地と、その上(?)に存在している情報環境を「重ね合わせる」感性がここには形として表現されている。筆者にとって、情報環境というのは、ギブスンのSF小説『ニューロマンサー』のジャックインのように、完全に別世界というイメージの方が強い。この展覧会に新しさを感じたのは、現実空間と情報環境を重ね合わせるその感性である。評論家の海老原豊が「空気の戦場」(『サブカルチャー戦争』所収)で指摘している通り、携帯端末やコミュニケーションと空気が密接に結びついた生活感覚を思わせる。これは僕の直観で思っただけのことなのだが、ひょっとすると携帯端末を当たり前に持ち、使っている人々は、「空気」自体を情報を伝達する媒体として考えていないだろうか。それどころか、「空気」に情報が満ちているとすら考えていないだろうか。どうしても我々は電線などのメタファーで未だに情報伝達を考えてしまうが、「空気」や「空間」自体が情報に満ちた伝達媒体と捉えて世界を見てみたらどうだろうか。驚くほど景色が変わる。僕はこの展覧会場で、そういう感覚を味わった。一見荒んで見えるこの会場は、その変容を起こすことが可能かどうかがいわば勝負どころとなっている。「見えない設計」が重要なのだ。
 その「見えない設計」は、物質と情報だけではない。人間関係のネットワークもおそらくは「重ねあわされて」いる。Twitterやブログなどでの告知や、このカタログでの異様なほどの評論家・学者の起用は、そのような「人間関係のネットワーク」や「評判ゲーム」自体も会場の設計と重ね合わせるような意図がおそらくは存在している。
 この「重ね合わせ」の感性が、僕にとっては一番面白いところであったと同時に、一歩間違えると危険なものになるのではないかという危惧も抱かざるを得ない部分であった。
 
 
 そのほかに本展で重要な位置を占めているのが「モニタ」である。このモニタもまた「重ね合わせ」が行われている。実際の作品に直接触れる前に、ざっと概略だけを確認しておきたい。
 現代では、本もメールも文字も映画もテレビもゲームも音楽も、多くのものがネット回線で接続されたモニタ上で鑑賞されるような状況になってきており、ジャンルやメディアの違いが徐々に融解してきていると言われる(中田健太郎や渡邉大輔の述べる「映像圏」とは、おおまかに言えばそのような事態を指している)。そのような状況の中で、モニタ内とモニタ外の境界も融解した「モニタと現実の二重性」とでも言うべき事態が本展覧会では観察できる。
 この「モニタと現実の二重化」は、メディア環境の変化に起因しているのかもしれない。テレビやネット、ゲームが当たり前の世代にとって、それらのメディアと現実の価値付けの重みが、旧来の「現実観」とは異なるという可能性はある。
 携帯電話のインターフェイスもまたモニタである。ケータイ小説の多くは「つながり」を希求するものであった。オンラインゲームのへヴィユーザーは現実の人間関係よりも濃密な「仲間」をそこに見出している。郊外には共同体が(基本的には)存在していないと言われている。そのような共同体が失われたことによる孤独による「承認への飢餓」が「つながり」を求める動機のひとつとしては考えられる。
郊外はクリーンであっても殺伐としても、基本的に新しく造られた場所であり、伝統的に存在していたと言われる濃密なコミュニティが存在していない。暴走族や不良などは、共同体を形成し、暴走や喧嘩などで死に接近して「生の意味への飢餓」を満たすための装置として機能していたが、「クリーン」になっていく世界の中で彼らのような存在は次第に居場所を失っていく。そうなるならば、その場所は必然的にネットや虚構の中に求められる。美少女ゲームなども、ポルノの機能よりは擬似的なコミュニケーションと承認の装置の側面の方が大きい。
 その「モニタ」の延長線上で「情報環境」のことも考えるべきであろう。「感性」にとって、情報環境は、デジタルデータやコードやサーバーや回線のような「見えない」部分の問題ではなく、あくまで「モニタ」の延長線上で捉えられる問題であるからだ。「モニタ」がまずあり、そこに回線が接続されているかいないかの差異として「感性」は受け取るだろう。(情報技術についての知識を得てからその感性が更新されることはある)
郊外住宅地や団地は、CGで作られたように見えるし、夜に電灯が灯っているとワイヤーフレームのように見えることもある。「郊外」自体が虚構性を持っており、物質だからと言って「現実」ではないことはおそらく確かなのであろう。そしてそれにより、「虚構」との境界が感性、あるいは主体にとっては揺らぎやすくなるという、郊外という「風土」の効果はあるのかもしれない。


ni_kaのAR詩が象徴的に示しているのは、そのような「虚構/現実」という二稿対立が消失した感性であり、そのような感性を表現する技術であり、技術が構築する感性という循環構造である。人工物が環境と化し、内面に入り込み、世界の見え方を変化させる。そしてその感性が新たな技術や作品を作り、それらがまた感性を変化させ――という、技術・環境と内面のフィードバックする循環的な「風景」こそが、「浮動する風景」あるいは「流動する風景」と題された本展覧会の持つ意味の一つであろう(それと同時に、floating viewという言葉は「眼差し」=鑑賞眼=価値判断の揺らぎも含意しているだろう)
実際の風景の中に技術的に映像を埋め込み「浮かばせた」ni_kaのAR詩は、技術的制約のために作品的強度には些かの疑問はあるものの、この展覧会のテーマをよく示している。「(内面化されたものであれ、そうでないものであれ)技術を通して人間が(見たいように)世界を見る」という問題が、セカイカメラという装置によって身も蓋もなく露呈するのだ。
空気の中に存在し、技術を通さないと見えない情報として「詩」が存在しているというのは、「詩」のあり方に一石を投じるものである。文芸評論家の中沢忠之はいち早くtwitterで以下のように評価している。

AR詩って面白いのな。これだれが考えたの? 詩の可能性の中心から詩の限界を突破する試みじゃないかと、素朴に思うのだけど。
ni_ka氏が、デコメ的な創作(http://yaplog.jp/tipotipo/category_4/)からAR創作に至るまで、これらを美術のくくりや、あるいはサブカル的なジャンルに囲い込まず、詩として展開したことが、すごい慧眼というか彼女の強さだと思う。
要するに、どのジャンルにも適用可能な創作なのだけれど(それ自体で面白いわけだが)、それをどのジャンルに切り込んでいくとより適切かという問題を、彼女はきっちりフォローしていた。
詩って第二芸術論(桑原)的な発想で語られやすいけど、むしろ形態変形上の身軽さには可能性があるわけで、AR詩はそれを積極利用して、隣接ジャンルをも巻き込みつつ詩の幽霊的な面白い部分をうまく拾い上げている。
ニコ動とか映像系はいうまでもないけど、最近のAR詩とかtwitter連詩の試みとか見ていると、コミュニケーションや公共的な側面を(形式的かつ歴史的に)強く持っている詩形式の元気のよさが伝わってくる。
(2011年3月5日から8日に掛けてのtwitterでの呟きを論者が取捨選択)

それは実際に現地で移動しながら見ることで「動く詩」でもあるが、同時にそれを写真に撮りネットにアップすることで、会場に直接来なくても「モニタ上」で作品を鑑賞することが可能になっている。彼女の「詩」は、「現代詩」が、紙媒体や様々な評価基準の枠の中に縛られていて、「現代性」を持っていないのではないのではないかという疑問からスタートしている。テクノロジーが進歩したのなら、何故色をつけたり動かしたり、空間に浮かべてはいけないのだろうか? 雑誌に掲載されるものだけが詩なのだろうか? いや、本来、詩人や文学者は、その時々の最先端のテクノロジーや媒体を利用したのではないか? それこそが現代性ではないのだろうか? そのように、現代の詩が取りこぼしている領域を彼女は積極的に「詩」に導入してアップデートしようとしている。それは詩人・評論家の佐藤雄一が展開している詩の朗読イベント、通称サイファーや、それのWEB版、通称「スカサイ」と似た趣旨を持ちながらも、佐藤氏が音声やリズムにこだわることに対して図像性に強くこだわるという特徴を持っている。WEBと詩の関係を考察する際に、この両者のアプローチの違いは非常に興味深い対照を示している。
 彼女のもう一つの作品であるモニタ詩は、そのような詩のアップデートを極端な形で行い、絵文字や顔文字なども「言葉」として取り込み、「新しい言文一致」を行わんとする野心的な作品である。
彼女の作品は、元々yaplogに発表されている。基本的にyaplogやアメブロなどの若い女性が利用するサイトは、「ペタ」や「足跡」や「あいさつ」などコミュニケーションの快楽を刺激する設計になっている。彼女の作品はそのようなブログの一つであるyaplogに書かれていながら、その内容は理解やコミュニケーションを拒絶するものである。
WEBという、基本的にはコミュニケーション志向のメディアの中に作品を提示しながら、コミュニケーションを拒否し、感情の伝達を支援する機能である顔文字を意図的に誤用し、言葉を「意味」ではなく「図像」化してしまう。ジジェク派の女性精神分析学者コプチェクが言うように、女性の自我が「身体表層」にあるとするなら、WEBによって拡張された身体表層が文字を身体化しているようにも見える。
コプチェクの議論を非常に単純化して述べると、ラカン派の精神分析派の系譜を組む彼女は、人間は「鏡」を見て自己を単一のものとして認識するという「鏡像段階論」を採用しており、鏡の中の「像」を介して自己の一貫性を獲得するとしている。精神分析の通常の理論では男性と女性とは主体化の過程が違うので、男性は「見る主体」として、女性は「見られる主体」と主体化されるとコプチェクは言う。これは理論を持ち出さずとも、社会的な規範かあるいは生物的なものかは分からないが、そのような傾向は現代社会の中に容易に見出せるだろう。
そこでコプチェクは、「自我」というものが、脳や魂のように、ひとつの点のような場所や体内にあるのではなく、身体の表面に存在すると考えた。そうすると、服やアクセサリー、化粧も自我なのである。技術が身体の拡張だとすれば、アバターなどの形をとって様々に拡張されていく身体はそれ自体が自我なのである。ni_kaの作品は、「見られる」身体表層であると同時に、ぐちゃぐちゃに解体された「鏡像段階」以前の身体のようですらある。言葉と像(鏡像)との関係、自我と身体と表層との関係にさらに言葉とモニタを導入し、鏡像段階論のモニタ版とも言うべき独自な表現を行っている。
この作品が極めて面白いのは、そのような文字=図像である自我表層を装飾しようとする過剰とも言える欲望が、yaplogや顔文字という既存のアーキテクチャーの目的を逸脱して不必要な領域に突入させている点である。
人間は無意識にコードにコントロールされる存在であり、実際にネットユーザーの多くは無自覚にそのコードに従っているのだが、彼女の作品は、そのコードが誘導しようとする目的に対し、身体・精神レベルでの拒絶を起こしているかのように見える。それは視覚的に、人間・身体・精神がコード=言語をバグらせているかのように見えるのだ。ここには、「ネット・コード・人間」を一貫したスムーズな機械系と看做す発想に対する強い違和感が表明されており、そのことが文字の「身体化」(自我表層化)という形で示されている。とはいえ、実際にコードがバグっているわけではない。あくまで表層でそう見せているだけである。
基本的に、コミュニケーションはコンテンツにならない。コミュニケーションが残した痕跡がコンテンツとしても面白い場合もあるし、コミュニケーション環境の中に投じられることを意識して創られる優れたコンテンツもある。あるいはコンテンツがコミュニケーションの側面を持っている場合もあり、この二つは簡単に切り分けることが出来ない。
彼女の作品は、コミュニケーション環境の中で生まれた美学をコンテンツ化しようとする作品であり、それ自体がコミュニケーション環境の中にありながらコンテンツであろうとする。「魔法のiらんど」などで書かれる些細なポエムや「携帯百景」など、地方の若い女性が多く使っているサイトの中に存在する「ポエジー」と、『現代詩手帖』のようなパッケージングされた「詩」との境界を探りながら「モニタ詩」や「AR詩」としてそれを提出する試みは、「詩」の制度の中で見えないものにされている、ケータイ的なささやかなポエムを「見えない」ARとして提示するということで痛切な批評性を持っている。
彼女の「絵文字」や「色」を文学に取り込み「新しい言文一致」を目指す文学的野心やWEB文学の可能性を切り開こうという野心は、背後に膨大な「魔法のiらんど」や「携帯百景」などに現れては「文学」に反映されない感性を中央に送り込み、内部から変えてしまおうという動機に支えられている。存在しているのに、見えないことにされている地方の中学生・高校生、OLなどの呟きや感性、あるいは表現技法(色や顔文字、絵文字)を見えるようにさせたいという動機は、AR詩にも反映されている。地方の素朴な女の子がナイーブにただ綴っただけのように偽装している“ポエム“は、セカイカメラという端末を通さなければ、そこにあるのに、見えない。この作品は、端末の性質上、実際に読まれる機会は少ないだろう。しかし、おそらくこの詩は無視されることによってその本来の批評性を完成させる作品なのである。端末や環境の限界により見過ごされ消えていく”幼稚なポエジー“は、それ自体がネットに多く現れている”幼稚なポエジー“の運命そのものであり、それ自体が「詩」の制度に対する痛切な批評になっているのだ。


モニタと現実の往復で言えば、笹川の『うつろ戦士』も特異な感性を示している。このビニールで出来た透明で空っぽのロボットは、かつてCG制作をしていた彼女が、周りの男性たちのロボットアニメへの熱狂に違和感を抱いて製作されたという。CGのワイヤーフレームで作られ、中身が空っぽなロボットたちをモニタの中から物質世界に出させ、その身体的な質量のなさを突きつける。
確かに、アニメやゲームなどで感情移入するロボットやキャラたちには質量が無い。厳密に言えばデータの重さやセル画の重さはあるとはいえ、基本的には体積が無かったり、身体の内部がなかったりしている。モニタと現実を同一視するような感性が醸成されているとは言え、一致しない一点が確実にあるのではないのか。そのようなことを、立体化された透明のワイヤーフレーム風のロボットは感じさせる。
筆者は実際にこの作品の展示設営を手伝ったが、この『うつろ戦士』は、ビニールで出来て透明で浮かんでいるにも関わらず、非常に重いのだ。支えている腕が痛くなったぐらいである。アニメやゲームをし続けていると忘れがちな、物質性や重力の感覚を、彼女は批評的に突きつけている。
 彼女のもう一つの作品である「セキュリティーシステム」シリーズは、さまざまなカメラなどを組み合わせたり植物などで作られた擬似監視カメラである。ここには、「見る対象」をぐちゃぐちゃに解体して組み合わせなおしてやりたいという欲望が強く感じられる。レトロなカメラを解体して組み合わせたその無骨なカメラは、ほとんどサイボーグかキメラのようである。「見る」だけで「見られる」ことのない場所に立つことを望む、監視カメラの向こうで(おそらくはモニタを見ているであろう)主体のグロテスクさを、カメラ自体をキメラ化させることで突きつける。


 「見る/見られる」の問題で言えば、石塚、笹川の作品が物体であり、清野は自身がそこにいることを作品とし、ni_kaと田代が言葉である一方、男性の作品はほとんど全て映像もしくは写真であることも指摘しておかなければならない。モニタや情報を身体化させようとしたni_ka、モニタの中のCGを物質化させようとした笹川に対して、佐々木、川部、遠藤は、現実の物質的空間を平面化させる作品を提示している。極めて乱暴な図式にしてみれば、身体表層にこだわる女性の作品と、世界を視覚で所有しようとする男性の視点とがこの会場の内部で衝突するように設計されている。
会場には笹川の監視カメラがある。私秘的に映像を用いようとしている佐々木らのプライベートな欲望それ自体を監視するかのような冷徹な視線がここにはある。この視線は石塚も意識しているものではあった。作品をメートル単位でグリッド化する彼女の作品は、世界を常に上空から監視する視線(世界視線)を意識させる。本展覧会では女性の方が極めて無慈悲な視線を獲得しているようだ。
男性の方が極めてナイーブに映像・視線に接しているようである。例えば遠藤の写真は何気ない郊外を移しているようでありながら、非常にナイーヴな内面を感じさせる。これは「モニタ」(映像)に対する愛着の差に起因するのだろうか? あるいは「カメラ」という装置が対象をデータ化して所有させてしまう機能を持っているという点を指摘するべきであろうか。
「環境」を撮影し所有するが、その映像を上映する「環境」は設計されたものの中に包まれている。このような循環が、この展覧会の中にはある。


 そして筆者が最も危惧するのは、この点である。本展覧会の佐々木のステートメントを見てみよう。「そこには、情報環境と現実空間のかさなり合いがある。/自然物と人工物のダイナミックなせめぎ合いがある。/身も蓋もなくロマンティックで劇的な私たちの生活がある」。
 18世紀のドイツ哲学では、精神と物質、理性と感性、外界と内界、社会と自由、貴族と市民など、矛盾するものをどう解決するのかということが大問題となっていた。それに対し、多くの人間が様々なアイデアを出した。
 そのような哲学的課題は、カントの影響を大きく受け、ドイツ観念論として発展していく。そしてその誤読や誤解釈、あるいは反発などを含め、イエナ大学周辺に集まっていたグループからドイツロマン主義が発生した。その主張も様々な彼らの思想をまとめて述べることは乱暴であるかもしれない。しかし、彼らの犯した決定的な過ちとして、「対立するもの」が解決するあるマジックワードのようなものを想定し、矛盾などを全部そこに叩き込んでしまえばいいという思想が存在していたことは否めない。そして、本展覧会に抱く危惧は、そこなのである。
「情報環境/現実空間」「自然物/人工物」という矛盾するものが「郊外」というキーワードで結びついてしまう。そしてそのことは「ロマンチック」だと言明されている。このように、矛盾したものを同時に両立させる思考は、ロマンティッシュ・イロニーに非常に似通っては来ないか。例えば、先に様々な分類を挙げた。「クリーンな郊外/荒れ果てた郊外」、「均質性/固有性」「コミュニケーション/コンテンツ」…… これらの対立が、如何なる形で、結びつくのか? ただ、「郊外」や「floating view」という言葉をマジックワードにするのであれば、それは郊外型ロマン主義でしかない。筆者は本展覧会からは非常に新しい感性や考え方やヒントを得て、刺激を得た一方で、このような郊外型ロマン主義の行き着く先について危惧の感を覚えずにはいられない。それは杞憂なのかもしれない。しかし、願わくば、その思考方法の陥る隘路を避け、開かれた表現を続けて欲しい。


 筆者は、最近、「隠喩的思考」を主題とするいくつかの論考を書いた(「過剰なる隠喩と解釈可能性の悪夢」『ユリイカ』2011年3月号貴志祐介特集)。その原因として、仮説に過ぎないが、情報環境や情報装置の影響があるのではないかと述べている。シェリー・タークルは『接続された心』で、インターネットではブリコラージュの原理が優勢になると述べた。ロイ・アスコットも、多少古い文章であるが、「ネットワーキングは『連想的思考』という言葉にもっとも増幅された解釈を与えうる、想像力の絡み合いを織りあげる」(「芸術と情報通信技術」)。現にネットなどを見ていて進行しているのは、類似性や隠喩などによる重ね合わせの思考の優勢である。それを「隠喩的思考」と仮に僕は名づけ、以下のように述べた。

情報環境という装置自体が私たちの思考方法を決定していき、その思考方法の上で言葉や世界を理解していく以上、そのような「隠喩」の効果について徹底的に醒めた目で見据える敏感さを持ち自分たちの「思考方法」自体を撃つことをしなければ、「言葉」の操作によって、私たちの世界観は次々と作り変えられ、都合のいいように操作されてしまうだろう。それでも構わないという生き方はそれはそれで一つの生き方だ――だが、それが嫌だという気持ちが少しでもあるのなら、「隠喩的思考」に対する警戒を怠るべきではない。「喩えるもの」と「喩えられるもの」の具体的な差異と同一性について緻密に思考を行うことこそが必要なのである。(拙稿「隠喩としての戦争」)

我々は類似性によりどこまで重ね合わせをしていいものなのだろうか? それは生産的な場合もあれば、そうでない場合もあるだろう。どこまでが重なり、どこまでが重ならないのか、どこまでを重ねていいのか、どこまでは重ねていけないのか、その厳密な確定が、倫理と美学と生活の名において、必要なのではないだろうか。
 本展覧会は、そのような現在の郊外的感性と情報環境に接している者の感性を形として表現し、伝達するものとして、鑑賞が困難な部分もあったとは思うが、一定の成功を収めたことと思われる。しかしながら、作品の美的強度や倫理的問題、そして価値判断の基準やここから派生していくだろう思想などに対しては、まだまだ吟味と議論が必要であろう。本展覧会と、ささやかなこの文章が、新たに生まれてくることは間違いのないこれからの郊外のアートや美学に対して何らかのヒントや議論の足場になってくれれば幸いに思う。