作家紹介(3)/生の論理についてのドキュメンタリー/田代未来子 blog「み」

文責:佐々木友輔


 田代未来子がfloating viewに出品したのは、大学在籍時からブログ上に書き貯めてきた日記である。それは、文字通りの意味での「日記」であり、決して「作品」のつもりで書いたものではないと彼女自身が明言している。私はそのテキストに以前から注目しており、ぜひこの機会に「作品」として紹介したいと依頼した。そして、これがあくまで「日記」として書かれたものであるということと、出品の経緯を明示することを条件に、彼女の展覧会への参加が実現した。
 郊外というテーマを意識的に扱っているのでも、直接郊外の風景が描かれたりしているのでもない彼女のテキストに対して私が期待したのは、これまでの郊外論がつくりあげてきた「何もない郊外」や「つまらない郊外」といった先入観を覆す視点、さらには、floating viewにおいて新たにつくりあげようとしている郊外観にも釘を刺す視点を、展覧会の内に持ち込むことである。情報環境の風土性やAR(拡張現実)、アーキテクチャといったキーワードが並ぶfloating viewは、その性質上、ともすれば「個人」という単位を軽視しがちになる。しかし繰り返し強調するが、郊外とはまず第一に人びとが住む場所なのであり、個人の生活という視点を抜きにして語ることは出来ない。 blog上の日記という形式で書かれた彼女のテキストは、この点を補完してくれる。情報環境と密接に関わりつつも独立して駆動する個人の生の論理、生の強度を私たちに教えてくれるのだ。

コンクリートの床の上に大きな花柄の黒い塊が2つある、あるね、あるねえ。
ぐしゅぐしゅと踏み込んで床のひびの間に隠してやりたい、地中で生きればいいんだよ。
寄り添って、生きればいいんだよ。
きっときれいに生きるんでしょう。
楽しく暮らすんでしょう。
あたしは地上で日焼けして汗をかく。
ずっと何かを根に持ったりして。
にたにたして。
雲丹食べて、
(『らいおんがにゃあと泣きゃっとJune 06 [Sat], 2009, 1:35』)

右を下にして目をつぶってベッドに付いた右こめかみ右頬右顎右肩
右腕右肘右手首右小指右腰右腿右膝右くるぶし右小指
から退化してベッドと一体化。
ベッドごとゆきます。水色の星柄の袖と肩と、花柄の掛け布団!
ミントアイス色のぬいぐるみとアップルまーくののーとPC。
蓋が取れた鏡。
ぬいぐるみだけは一緒に一体化するか、しないならソファの上に避けて
あとは乗っけたまま葬儀。
(『同じ毎日 July 10 [Fri], 2009, 10:58』より抜粋)


 彼女のテキストは、一読しただけでは、シュールな言葉遊びにしか見えないかもしれない。しかし注意深く読み込んでみると、実はそこに書かれているのはほとんどが彼女の見たもの、触れたものの即物的な羅列であり、妄想や空想によって生みだされた事物はほとんど登場しないことに気づく。行間に時折挟まれる彼女自身の感情描写も簡潔で、余計な装飾は施されていない。おそらく彼女は、何ら比喩的な意味ではなく「大きな花柄の黒い塊」を実際に目にして、「にたにたして」、「雲丹」を食べた。「水色の星柄の袖と肩」も「花柄の掛け布団」も「ミントアイス色のぬいぐるみ」も、脳内で作り出したファンタジーではなく、「アップルまーくののーとPC」と同様に、彼女を取り囲む現実空間の描写なのだろう。それは精緻な観察に基づいた、彼女独自の論理に支えられた日々の記録(まさに「日記」)であり、出来事や感情の再構成によって形づくられた言葉のヒトカタマリなのである。テキスト全体に溢れる豊かな色彩とガーリーな印象は、いわゆる「内面」描写なのではなく、彼女を取り囲む環境がそのようなものとしてあるということなのかもしれない。


 私は以前、アントニオ・ネグリの来日(実現はしなかったが)に合わせて企画した上映展「眼差しの反転——その痕跡と兆し」(東京芸術大学上野校地、2008)において、「特異的凡庸」というキーワードの元に、あまり上映される機会のないホームムービーや日記映画、ドキュメンタリー映画を紹介するプログラムを組んだ。特異的凡庸とは、微細な、だが確かに存在し、矯正することの出来ない、他者とのズレのことである。それは日常生活に支障を来すこともあるが、社会生活から逸脱してしまうほどではなく、時折少し不便というほどのものであり、大抵は誤差の範囲として処理出来るものである。マイノリティー運動などに結びつくこともない(あるいは、些細なマイノリティー性、見えないマイノリティー性が、特異的凡庸なのだと言うことも出来るかもしれない)。しかし、そのような身体や精神の融通の利かなさが、その人の行動様式を変える。人より曲げられない関節や、歩行時の足運びの癖や、止められない習慣や癖が、その人の思考様式を決定する。ホームムービーやドキュメンタリーで頻繁に用いられる手持ちカメラによる手ブレ映像には、映画本筋の大きな流れとは独立して動くもうひとつの物語、もうひとつの映画が刻印されている——たとえそれがフェイクドキュメンタリーであっても。複数の被写体を前にして見せる戸惑いや、判断の迷い、カメラの荷重による手の震えや撮影技術の手癖が描き出す、撮影者その人についてのドキュメンタリー映画が、本編の裡に隠されているのだ。


 そして田代は、私の知る限りこの特異的凡庸性を最も明確なかたちで表している作家である。彼女は日記を書くことによって、自らを、「田代未来子」というひとりの人間を記録している。ただしそれは、彼女の感情や内面(コンテンツ)、日々の出来事の記録であるに留まらない。そこには、彼女の論理、思考形式(アーキテクチャ)が記録されている。
 何があって書いたのか。何を意図して書いたのか。そのような謎解きや心理学的解釈をこのテキストに対して行うことには意味がない。彼女は、自身が言うように「普通のこと」「当たり前のこと」を即物的に書き記しているに過ぎず、物語内容だけを追っても、そこにはひとりの女性が書いた私的な覚書があるだけだ。このテキストに隠されているものは何もない。私たちが読むべきなのは、彼女の思考がどのような道を辿ってきたのかということである。
 彼女が感受した情報は、独自の論理に従って、色彩に変換されたり、並び替えられたり、グループ分けされたりする。その独特な変換や組み替えの規則性は、彼女の厳密な言葉の選択と使用によって言語(日本語)に翻訳される。そうして出来上がったテキストは、彼女の思考形式が演算した結果であるに留まらず、その思考形式そのもののかたちを表した構造物として現れてくる。
 この構造物を読むという体験は、私たちに多くの「気づき」をもたらしてくれるだろう。自分のまだ知らない論理で動く世界があるということへの「気づき」を。物語内容としては、ある意味で凡庸ですらある「当たり前のこと」に至るまでにも、どれだけ多くの道筋があるのか、どれだけ豊かな可能性に開かれているのかということへの「気づき」を。そして私たちは、自ずと「当たり前のこと」が本当に当たり前のことなのかを疑うことになる。それは本当に同じ結論なのか。他人のそら似ではないのか。私たちはそこにあるはずの差異を四捨五入して、大雑把な要約をした上で、多様な物事をすべて「同じもの」として乱暴に扱ってきただけなのではないか、と。


 私は、自分が何かを言わなければならない時、大きな決断を迫られた時はいつも、彼女のテキストについて考える。彼女の言葉はそれを聞く者を謙虚な気持ちにさせる。様々な例外を括弧の中に入れ、情報を縮減し、いくつかの前提条件を設けることで可能になった世界観に揺さぶりを掛け、土台から覆してしまう力を持っている。郊外の均質性にまつわる言説に限らず、個人の生にまつわるあらゆる矮小化、均質化に対する抑止力として働く彼女の言葉に触れることで、私は自らの立ち位置を問い直し、佇まいを正す。