作家紹介(4)/地図の詩、空間の詩/ni_ka「blog詩」「AR詩」

文責:佐々木友輔


 フリーライター速水健朗による『ケータイ小説的。”再ヤンキー化”時代の少女たち』は、ケータイ小説の主な購買層が郊外に住む少女たちであり、物語の舞台も多くが郊外都市であることから、自ずと郊外文学論としての性格も帯びた著作であるが、そこで速水は、「都市・オタク・少年」というキーワードに対して、「郊外・ヤンキー・少女」(浜崎あゆみ、ヤンキー系少女漫画、ケータイ小説などが想定されている)は、その市場規模の大きさにも関わらず、批評の対象としては極めて軽んじられている「被差別文化」であると述べている。
 実際、一時期国内で大きな盛り上がりを見せたケータイ小説についても、社会学的観点、心理学的観点からの考察が行われることはあっても、表現論や作家論にまで踏み込んだ論考はいほとんど現れなかった。それは結局、今でも、ある時代の流行、社会現象以上のものとは認められていないのだ。村上隆らによってオタク文化がアートの文脈に乗せられ、芸術表現として広く認知されたのとはあまりに対照的である。


 こうした「郊外・ヤンキー・少女」的なものに、批評的な意識を持って介入し、現象ではなくひとつの芸術表現として打ち出そうとしているのが、詩人のni_kaだ。
 彼女は主にブログ上で、絵文字や顔文字、デコメールを用いたり、いわゆるフォント弄り(フォントサイズやカラーを変えたり、太字で表示させるなどの文章表現)を駆使した詩や小説を発表している。ケータイ小説や、女子高生の携帯メール、あるいはmixiのような土着的なSNSなどで、日々膨大に書き連ねられ、内輪だけで消費されていく言葉たち、その文体を抽出し、現代詩の文脈に引き寄せながら、新たな詩のあり方を探る試みである。特に2009年初頭の『 あ、ちぽ人生 』や『 失恋マンションと空中浮遊あたしにか 』の頃から顕著になった、絵文字を大量に用いた表現は、もちろん歴史的には具体詩や視覚詩の系譜に位置づけられるのだろうが、インターネットやウェブという情報環境と結びついたことで、これまでになかった視覚体験がうまれている。


 彼女のblog詩は、私たちの視覚に対して非常に複雑な運動を要求する。横書きのテキストを読むために、左から右へと視線を動かして文字をなぞる運動。縦長のレイアウトのblogを読み進めるために、画面を上下にスクロールする運動。テキストを読む流れを遮るように、時に散らばり、時に密集してこちらの気を惹く絵文字たち。絵文字の中にはgifアニメになっているものもあり、異なる速度、異なるリズムで姿かたちを変えていく。そして上下左右、斜めと、視線の動きや画面全体のスクロールの重力から逃れて自在に移動していくテキストと絵文字は、彼女が詩の中で繰り返し用いる表現の通り、まさに画面の中を「浮遊」しているように見える。
 一般的なテキストのように単線的に進むのでもなければ、ハイパーリンク的に複数のページを飛び越えていくのでもなく、そうかと言って、ひとつのページ内をどこからでも好きに読み進めて良いというわけでもない。横書きのテキストを読む視線の動きを土台としながらも、同時に、それとは異なる複数の視線の動きを要請されるのである。彼女は視線の攪乱によって、新たな「読み」のリズムをつくりだしている。


 また、もうひとつ別の側面からni_kaの詩を考えてみたい。絵文字や顔文字は、他の誰かによって描かれたイラストであり、著作物である。それを用いて詩を書くことは、文学における「引用」というよりも、絵画などの平面作品における「コラージュ」の感覚に近い。同様に、テキストのフォントもまた誰かによってデザインされた著作物であることを考えれば、彼女の詩は、一種のコラージュ作品として見ることも出来る。
 そのようにして見た場合にまず気がつくのは、中心の不在と、全体像を見渡すことの困難である。絵文字は、中には例外的なものもあるが、基本的にはフォントの標準サイズ(8pt〜10pt)に合わせてデザインされており、自由に拡大縮小をすることが出来ない。よって必然的に、詩の中に登場する絵文字は、単独では画面いっぱいに広がるようなダイナミズムを生みださない。同じ絵文字、あるいはいくつかの絵文字の組み合わせを大量に並べることで画面上にまとまったひとかたまりをつくることは出来るが、それが象徴性・中心性を持つまでには至らないのだ。そもそも、テキストを読むことが前提であり、縦長のデザインで上下にスクロールしていくblogの画面構成は、画面全体を見渡すような視点を想定していない。彼女は、一般的な詩の形式から離れて限りなく絵画に接近しつつも、その絵画的な見方に対しても一定の距離を置いているように思える。
 私は、ni_kaの詩は絵画的な見方よりもむしろ、テキストや記号を空間的に配置する地図的な「読み」を要請しているのではないかと考えている。絵文字や記号のコラージュ・配置による疎密がモニタ上に図と地をつくり、テキストは道路として、読みの方向を指定することで、矢印などの記号と共に視線の交通整理を行う。それは、ただテキストを用いて空間構成をするだけではない、経路情報付きの地図である。情報環境から現れた新しい表象や「郊外・ヤンキー・少女」的なものを詩に持ち込むという試みの裏側で、彼女は、地図的・地理的な空間性を詩に持ち込むというもうひとつの試みを進めているのではないだろうか。


 この、ni_kaの空間への感性が、AR(拡張現実)というテクノロジーと結びつくことは自然なことだろう。彼女がセカイカメラを用いて展開する「AR詩」は、floating viewの会場であるトーキョーワンダーサイト本郷から最寄り駅(水道橋駅お茶の水駅)までのルート上に、短いテキストや作家自身の朗読の音声、ハローキティーの画像などを貼り付けたエアタグを無数に浮かばせるというもので、まさに、詩を現実空間上に配置する試みである。
 AR詩では、通常の詩やblogのように、定められた出発点がない。鑑賞者がスマートフォンセカイカメラを起動させたところが詩の始まりとなり、アプリケーションを終了したところで詩も終わりを迎える。とは言え、鑑賞者に大きな自由が与えられているわけではなく、むしろ制約の多さを感じるかもしれない。blog詩における「読み」の方法、つまり視線の移動は、AR詩では鑑賞者の歩行に置き換わる。そのため、どのような順序でエアタグに乗せられた言葉を読んでいくかは、自ずと現実空間の地理や交通ルールに従うことになるだろう。ここでは、エアタグがAR空間上の地理をかたちづくり、現実空間の地理が「読み」のリズムを生みだしているのだ。
 さらに言えば、そもそもこのAR詩は、エアタグが浮かんでいる場所——今回であれば東京都の本郷——を訪れなければ鑑賞することが出来ない。しかしni_kaは、情報環境上にありながら現実空間の強い制約を受けるというARの特性を欠点と見なすのではなく、むしろそれを活かして表現の核心へと転じさせる。
 floating viewの会期中に起こった東北地方太平洋沖地震を受けて制作された『2011年3月11日へ向けて、わた詩は浮遊する From東京』で彼女は、東京という自身の居る場所から、声を届けることも、安否を確認することも出来ない東北地方の人びとに向けて、詩というメッセージを発する。その場に来なければ読むことが出来ず、スマートフォンを通して見なければ何も見えない、限りなく弱々しく、限りなく透明なその言葉たちは、情報環境がどれだけ発達しても埋めることの出来ない距離を、東京の本郷と東北の海という現実空間の埋められない距離を強く感じさせると同時に、その距離を前にして無力感を感じつつも、それでもなお何かしら言葉を紡ごうとする人びとの心象を見事に視覚化している。
 この詩が本当の意味で実を結ぶのはもう少し先のことになるだろう。復興が進んで震災が「記憶」となり、リアルタイムで感じていた「今」の感情が風化してしまっても、本郷に行きセカイカメラを起動すれば、AR空間上にはまだその「今」が浮かんでいる。その、ささやかなモニュメントから私たちは何を感じることが出来るだろうか。