作家紹介(5)/猥雑で危険なセカイ/遠藤祐輔 blog「finalfilm」etc.

文責:佐々木友輔


 郊外の風景を写真に収めようとする時、どのような方法があるだろうか。まず思いつくのは、「危ない郊外」を捉えた一連の作品群であろう。郊外型住宅や団地に暮らす幸福な家族というイメージの裏には、画一的で個性のない生活があり、犯罪が多発する危険な場所であるとする見方である。そこでは郊外を得体の知れない他者として捉え、郊外型都市計画の見直し、あるいはその外側にあるより良い場所への脱出を促すのだ。
 それに続いて思い出すのは、ホンマタカシの『東京郊外 TOKYO SUBURBIA』に代表されるような、郊外のありふれた風景をニュートラルに受け止める視点である。郊外に対する過度に露悪的な意味付けや物語化を退け、即物的にそこにある建築物や、そこで暮らす人びとの生活にカメラを向ける。これは、「日常としての郊外」を捉える試みだと言えるだろう。


 では、floating viewで唯一写真作品を出品している遠藤祐輔はどうだろうか? 彼の写真にも、ある種の不穏さがある。展覧会場に横一列に並べられた約80枚の写真には、群衆が何かを不安げに見つめる姿や、うずくまる老人、公園の茂みの中へと足を踏み入れるサラリーマンなど、奇妙な行動をとる人の姿が捉えられている。それは日常の風景が非日常に変質する直前、あるいは瞬間のようであり、その後そこで何か大きな事件が起こりそうな気配が充満している。
 しかし、その不穏さはすぐさま「危ない郊外」的な批判には結びつかない。遠藤は、「危険」であり同時に「日常」であるその風景に愛憎の入り交じった目を向ける。彼は郊外独特の不穏さそれ自体に、ある親密さを見出している。彼にとって、郊外はそのまま世界(セカイ)であり、どこまで行っても逃れられないものであると同時に、代わりの効かない故郷のような場所でもあるのだ。


 また彼の写真には、「危ない郊外」や「日常としての郊外」を捉える郊外写真とは別の文脈が差し挟まれている。それは、新世紀エヴァンゲリオンを嚆矢として、90年代中頃から登場し00年代初頭にそう呼ばれるようになった「セカイ系」と呼ばれる一連の作品群の系譜である。

東京が焼け野原になってしまって、化学物質による汚染のため今後300年は立ち入り禁止になってしまったらしい。
東京以外の主要都市もほとんどが壊滅状態で、残ったのは郊外だけだった。
郊外というテーマを与えられて、久しぶりに写真を撮ろうとしていた矢先。
セカイはすべて郊外だけになってしまった。
あの日。紙一重の所で、僕はこの戦争を回避していた。
いつもだったら豊洲からお台場辺りで釣りをしていたのだけれども、水面が鏡のようで生命感がなく荒川中流域に自転車を漕いだ。
赤羽側で釣りを開始しようとしたら、いいポイントに先行者がいたので仕方なく埼玉側で釣りをしていた。
釣りに夢中になっていた僕はそれをずっと朝陽だと思っていたんだ。
対岸の釣り人は燃えていた。
明日は横浜で仕事だ。
首都機能が移転された横浜みなとみらいは厳戒態勢らしい。
(遠藤祐輔blog「finalfilm」より 2010-11-11「東京湾奥デバックルーム晩秋」)


 戦争、自転車、ボクとキミ、郊外、高い空、茫漠と広がる街の景色——。彼の写真、そして彼の作品タイトルや写真に添えられるテキストには、いわゆるセカイ系的なモチーフが無数に登場する。しかし彼は、多くの影響を受けていることは確かであるにせよ、自らの作品やテキストをセカイ系であると位置づけているわけでもなければ、それらの作品群を殊更に意識して制作をしているわけでもないと言う。では、遠藤自身が持つ問題意識とセカイ系とがシンクロするのはなぜだろうか。
 先述(カタログ掲載予定の論考)したように、藤田直哉セカイ系の作品の多くが北海道のニュータウンの風景を舞台にしていると指摘しているが、彼の言う「セカイ系の典型的なイメージと言える、平坦な地面に広い空という景色のある場所」は、そのまま典型的な郊外の風景のイメージであるとも言える。これは、セカイ系が郊外という舞台を必要としたというよりもむしろ、郊外的環境がセカイ系という物語構造を生みだしたということを意味しないだろうか。郊外における共同幻想、郊外における都市伝説としてのセカイ系——。遠藤は、セカイ系的想像力がうまれる現場、そのような物語がうまれる未然の気配を見つけ出し、カメラに収めている。

透明な宇宙人は、近代のインテリゲンツィアたちが盛んに言葉遊びをしてきた、神なるもの、プゥンクトゥム、イノセンス、アート、クオリアエーテルリリィ・シュシュジミ・ヘンドリックスフェンダー・ローズ、1959年製レスポール相対性理論テロリズム、アミニズム、愛、印象派、萌え、マトリックス、幽霊、妖精、鬼、尾崎豊山田かまち王蟲、トトロ、セカイ、社会ではないもの、そうしたものと同義の、衰退した言葉の成れの果てのことだ。名前をかえて姿をくらましつづけ、新しい名前とともに時代を煽動し、風化する直前にまた違う名の元に輪廻する。そういった不定形な未分類なものを撮る、行為こそ写真だと信じていた。
(遠藤祐輔blog「finalfilm」 2011-2-18「トキガタタネバナニモワカラナイ」より)


 遠藤が言うように、セカイ系は「名前をかえて姿をくらましつづけ、新しい名前とともに時代を煽動し、風化する直前にまた違う名の元に輪廻する」もののひとつに過ぎないのだろう。実際、セカイ系そのものの流行が過ぎ去った後も、そこからうまれた想像力は次代の作品や作家に様々なかたちで受け継がれている。それを郊外からうまれた想像力であると考えるならば、もはや「何もない」ことから出発する郊外観を語ることは出来ない。
 そもそも、「何もない郊外」や「危ない郊外」という言説から生まれた無数の作品群は——たとえそれが郊外を否定的に捉えるものであっても——その場所が作家たちの想像力をかき立てる危険な魅力を本来的に持っていたことを伝えている。郊外は、60年代から70年代にかけてアングラ文化が隆盛を極めた新宿や、90年代から00年代にオタク文化が花開いた秋葉原などと並べて語るべき、猥雑で危険なエネルギーに満ちた場所なのである。


 では、このような見方が今まで現れてこなかったのはなぜだろうか。石塚つばさは、郊外という場所の広大さに原因があるのではないかと述べている。確かに新宿や秋葉原などの都市であれば、狭い区域内に文化施設が密集し、作家同士の距離も近いので、その文化的状況を体感するのが容易である。それに対して郊外のだだっ広い空間では、作家も施設も偏在しており、そこで起きていることの全体が見通しづらい。
 その距離を、遠藤は持ち前の体力と機動力で埋め合わせる。遠距離を自転車で駆け回り、膨大な数のシャッターを切る。速度存在として、「時間的な隔たりや空間的な隔たりをないものにして縦横無尽に運動する」(丸田一)ことで彼は、空間的な広がりの中に拡散してしまっている郊外の可能性をかき集め、圧縮して提示してみせるのだ。彼が、blogでもギャラリーでの展示でも、あるまとまった量の連作として作品を発表するのはそのためである。ある地点に留まり、一枚の写真を撮るだけでは足りない。茫漠とした空間ひたすらに彷徨い歩き、シャッターを切り続けることで初めて、その場所は魅惑的で危険な香りの漂うワンダーランドとして現れてくる。


 私が郊外をテーマとして制作や企画を行うようになったのも、遠藤の写真がきっかけである。郊外を撮った写真は無数にあるが、作家の想像力を刺激して止まない郊外、新たな表現がうまれる源泉としての郊外の可能性を感じさせてくれるのは、彼の写真をおいて他にない。