作家紹介(6)/記憶のハコとしての団地・ヴォイド空間・映画/川部良太『ここにいることの記憶』『そこにあるあいだ』

文責:佐々木友輔


 2007年に制作された川部良太の映画『ここにいることの記憶』の舞台は、希望ヶ丘と呼ばれる団地である。10年前にそこで行方不明になった当時12歳の少年<カワベリョウタ>についての記憶が、現在の団地の風景の中で、住人の朗読によって語られる。
 失踪した少年の名前からも分かるように、これは架空の物語であり、フェイクドキュメンタリーの一種であるとも言えるだろう。しかしこのような手法を用いることによって彼が試みようとするのは、映画にリアリティーを持ち込むためでもなければ、フィクションとノンフィクションの境界を曖昧にして攪乱するためでもない。私にはこの映画は、純然たるドキュメンタリー映画であるように思える——ある場所の在り方についてのドキュメンタリーに。


 映画の中で語られる少年に関する記憶は、個別的なものであるというよりは抽象的で、誰もが既視感を持つような物語である。失踪事件の真相に近づくような話、事態に進展をもたらすような話も最後まで出てこない。情報は断片的で、皆がカワベリョウタについて語っているのにも関わらず、その少年の実像は一向に見えてこない。
 その代わりに浮かび上がってくるのは、舞台となる団地の風景や、そこで暮らす人びとの営みだ。実際の団地の住人——トレーニングされていないまったくの素人による朗読は、そこで発せられている言葉の意味内容以上に、その声、その表情が強く印象に残る。また同時に、その人が朗読用の原稿を持って佇む風景、その場所が前面にせり出してきて、私たちの目に焼き付けられる。おそらく少年はマクガフィンのようなものなのだろう。架空の少年を語るという行為をきっかけとして、それに触発され、話者それぞれの記憶が混ざり合い、かさなり合い、誰のものでもなく同時に誰のものでもあるような記憶の群れが形成されるのだ。そして、こうしてうまれた集合的な記憶とは、場所の記憶、より具体的にいえばその団地の記憶に他ならない。
 画一的な部屋が積み重なる団地の風景を川部は、引きのショットを多用しつつ、グリッド状に展開する奥行きのある空間として捉えていく。両サイド、そして画面奥の突き当たりと、団地に囲まれた画面構成は、その場所がまさに「家族を容れるハコ」であることを物語っているようだ。架空の少年を起点として集められた、そのままではまだおぼろげで未定型な記憶の群れは、この、団地という容器の中に収められることで初めてかたちを持つ。団地の枠組みは同時に映画『ここにいることの記憶』の枠組みにもなっている。


 2008年制作の映画『そこにあるあいだ』では、2組の兄弟についての物語が語られる。ひとつは、再婚する母親の結婚式のために東京から実家のある山梨へと車で向かう兄弟の物語。もうひとつは、祖母の入院をきっかけとして12年ぶりに再会する兄弟の物語である。
 『ここにいることの記憶』において、様々な記憶や物語、人びとを結びつけていた少年というひとつの点は、この映画では複数化し、より複雑になっている。ひとつの映画の中で、交わることのない2つの物語が同時に進行すること。実際に兄弟でもある2人の役者が、2組の兄弟役を演じていること。東京と山梨という2つの場所を往来すること——。このように作中には対となる要素が数多く盛り込まれ、タイトルの通り、対の数だけ「そこにあるあいだ」がうまれる。複数の「あいだ」をかさね合わせていくその方法論は、『ここにいることの記憶』以上に、映画を空間的に構成する意識が高まっていることを感じさせる。

バイパス的郊外には歴史を含めてやっぱり何もないと思う。ただ、人間は何もないなら、何もない風景に浸透される。何もない風景と近しい感覚になった存在は、近しくならない存在には見ることが出来ない主観的風景を見ることができる。
(floating viewカタログ所収「風景と体温を合わせて撮る」より 宮台真司の発言)


 『ここにあることの記憶』において団地が果たしていたハコの役割は、『そこにあるあいだ』では、アイ・ウェイウェイが『暫定的な風景』で捉えているような広大なヴォイド空間が担っている。土手沿いの高架橋の下。マンションの手前に広がる空き地。廃墟となったパチンコ屋の駐車場——。日本では、郊外都市や地方の町でよく見かける景色である。それは一見、つまらない、文字通りヴォイド(空)で何もない空間に見えるかもしれない。
 しかし川部は、そのようなヴォイド空間だからこそうまれる記憶や、形成される磁場があることを知っているのだろう。彼、いや現代に生きる私たちの多くは、宮台の言うように「何もない風景と近しい感覚になった存在」であり、ヴォイド空間や団地を主観的風景として眺め、固有の記憶や物語を見出している。川部良太が試みているのは、このような空の(ように見える)容器としての場所に次第に流れ込み、満ちていく記憶や物語を可視化することなのだ。
 川部の映画の特徴である、綿密にロケハンによって決められた構図、フィックスショットでじっくりと粘り強く撮られたショットは、観客自身が持つ記憶や感情が、このヴォイド空間に浸透し、充満するのを待っているかのようである。そのがらんとした空間を眺めながら私たちは、その空きの部分に自らの記憶を注ぎ込み、映画を補完していく。作中に登場する場所や人びとの記憶、作者である川部自身の記憶、そして観客の記憶がハコ=映画に容れられて、現代、私たちが生きている場所の在り方についてのドキュメンタリーが完成するのだ。


 川部は、同じfloating viewの出品作家の中でも、遠藤や佐々木のように「速度存在」として郊外を捉える方法とはまったく別のアプローチ——団地やヴォイド空間をハコとして、映画をハコとして用いること——で、容易には捉えがたい郊外的環境という場所のあり方、そこで暮らす人びとの生のあり方を見出している。それぞれの作家の作品を通して観ることで、より重層的で、厚みのある郊外の姿を捉えることが出来るのではないだろうか。