作家紹介(7)/「その場所」に批評させること/藤田直哉「ザクティ革命」『シリーズ 10年代の光と闇』

文責:佐々木友輔


 SF・文芸を中心として批評・評論活動を行っている藤田直哉が、2008年に『東浩紀ゼロアカ道場』を機にスタートした映像による批評活動/作品が「ザクティ革命」である。これは、作家や批評家への突撃取材やイベント後の打ち上げの様子をXacti(ザクティ)と呼ばれるビデオカメラで撮影し、ニコニコ動画youtubeなどの動画共有サイトにアップするもので、ほぼ無編集の映像、ぐだぐだ感の漂う会話のやりとりは、ネット上を中心に大きな話題となった。もちろん、藤田が映像の中で見せる分かりやすく不真面目な態度は多くの反感も買ったが、結果的には、この翌年頃から盛り上がりを見せることになるustreamニコニコ生放送による映像のリアルタイム配信、さらには飲み会や自宅での独り言を延々と中継する「ダダ漏れ」の流行の、先駆けとなる活動となったとも言えるだろう。
 私が彼の活動に注目するきっかけとなったのは、『社会は存在しない』所収の論考「セカイ系の終わりなき終わらなさ――佐藤友哉『世界の終わりの終わり』前後について」である。彼のこの著作を私は、セカイ系佐藤友哉を通して北海道の地方都市・郊外都市の問題を取り上げた、ひとつの場所論として読んだ(本論考の遠藤祐輔の項などを参照)。自身の郊外都市での生活体験に裏打ちされたその眼差しは、時にシニカルでありながらも、ただ否定的な言葉を並べて終わるのではなく、そこからうまれる表現や想像力を見出し、その可能性を問おうとする姿勢に貫かれている。


 藤田がfloating viewに出品したザクティ動画の新作『シリーズ 10年代の光と闇』シリーズは、第一回「ヤマダ電機LABI」では、郊外型電気店のケーズ電機と都内に進出したヤマダ電機LABIの比較を行い、第二回「ショッピングモーライゼーション」では、小山遊園地跡に出来たショッピングモールへと取材に赴くなど、展覧会のテーマである郊外的環境の象徴であるような場所に、より焦点を合わせた内容になっている。
 技法的な面から観ると、この作品には大きく分けて3つの要素が混ぜ合わせられている。ひとつは、ザクティというビデオカメラのスペックに従って即物的に撮られた、電気店やショッピングモールなど彼の批評の対象となるものの映像。先述したようにほぼ無編集で、ノイズなども取り除かれずにそのまま残っている。ふたつめは、そこで撮っている対象について、過去に語られた批評の言説を紹介したり、引用したりする藤田の語り。第一回では、これまでの郊外論で語られてきたテンプレートや、floating viewのステイトメントにも書かれている「都市の郊外化」について語り、第二回では、『思想地図β』vol.1で掲げられたテーマである「ショッピングモーライゼーション」についての紹介や、舞台となる小山遊園地跡についてのwikipediaの項目の引用が為される。そして三つめは、藤田自身の率直なリアクション。彼はその場で感じたことをとりあえず言葉に出してみる。既存の郊外論と実際とのギャップに疑問を呈したり、あまりに身も蓋もない(語りようのない)風景に対して何も言葉が出せずに立ちすくむ姿まで、彼は自らの感情の変化や戸惑いまで含めて、隠さずにビデオカメラの前に晒してみせる。


 当然のことながら、ある言説と、その対象との間には埋めがたいズレがある。酒鬼薔薇事件の少年Aが住んでいた郊外住宅地が、まさに犯罪の温床であるような不気味な場所として語られたり、そう見えるようにフレーミングされて全国のお茶の間にニュースとして報道されたり、といったように。実際にその場所に訪れてみると、聞いていたのとはまったく違う風景が広がっているということは決して珍しいことではない。特に郊外という場所は、そのような先入観や刷り込みによる誹謗中傷に晒されることの多い場所だった。
 藤田の映像は、そのような言説と対象とのズレを顕在化する。先ほどの三つの分類で言えば、ひとつめの「対象となる場所の映像」とふたつめの「既存の言説」を、ひとつの映像作品の上、同じまな板の上に乗せることで、その言説の妥当性、両者の距離感やズレが身も蓋もなく露呈するのだ。それはあたかも、一方的に批評の対象となってきた「その場所」が、自らへの批評に対して反論している、もしくは逆批評を仕掛けているようにも見える。偏った思想やリサーチ不足によって強くバイアスの掛かった言説や批評は、「その場所」からの反撃によってすぐさま崩れ去り、吹き飛んでしまうだろう。


 もちろん藤田は、この試みによって言説の無力さを突きつけようとしているのではない。彼が行おうとするのはむしろより厳密な言説の妥当性の検証であり、よりリアルな批評の言葉の探求である。
 彼は、時にはレフェリーとして、時には実況・解説者として、「ある場所(もの)を批評すること」と「その場所に批評させること」との間で繰り広げられるゲームの進行を取りまとめる。即興で言葉を紡ぎ、自らの身振りや戸惑いも含めて、様々な手を尽くして、両者の間の距離を見極めていく。しかし彼は、そのようにして見つけたズレや溝を埋めるのではない。溝があること自体をありのままに記録することで、若林幹夫の言う、「神話と現実」の双方を持った重層的な場所のあり方を視覚化するのだ。これは、私が映画『夢ばかり、眠りはない』で行った、秋葉原通り魔事件に対する言説の朗読と実際の秋葉原という場所の映像をかさね合わせていく試みや、川部良太が行っている、架空の事件の記憶や実際に団地に住む人びとの記憶など複数の「あいだ」にうまれる磁場を映画というハコにパッケージングする試みとも、ある種のシンクロを見せているように思える。
 藤田は、映像だからこそ出来る批評の方法を発見し、実践している。それは彼の本業である論考執筆を補完する重要な仕事のひとつである。映像とテキストの双方を見なければ、彼の「場所」への考え方の全体像は見えてこないだろう。