作家紹介(2)/記憶の化石 郊外における口承芸術/清野仁美『波多野物語』

文責:佐々木友輔


 floating viewにおいて、郊外を定義づけるキーワードとなっている「忘却の歴史と希薄さの地理の神話と現実を生きること」(若林幹夫)をまさに体現して見せてくれるのが、清野仁美による『波多野物語』のシリーズである。
 この作品は、かつて誰かから聞いた話を作家自ら口承で公開するというもので、これまで旧フランス大使館の一室や、徳島の上勝町に設置されていた小屋、茨城の大学近くの休耕地など、様々な場所を舞台に展開している。しかし「これはパフォーマンスではなく展示だ」と言い、自らを性能の悪いテープレコーダーに例えながら「展示品としての身体」であることを強調する彼女の一貫した姿勢は、それがいわゆるコミュニティ・アートとは異なる問題意識、文脈に基づいた作品であることを示している。


 『波多野物語』というタイトルと口承の形式からも明らかなように、この作品の背景には柳田國男の『遠野物語』を始めとして民俗学・人類学が取り扱ってきた口承文学・口承芸術の歴史がある。しかし彼女は、ある時代・ある場所の風俗や文化、生活を伝える口承芸術の資料的価値という側面から意図的に逸脱してみせる。というのも、そこで語られる物語は多くの場合、彼女自身もなぜ覚えているのか分からないような些細な出来事の記憶であり、しかも時を経て細部は風化してしまい、かろうじてその痕跡だけが認められるようなものであり、口承芸術に刻印されているはずの固有の場所性・歴史性が見事なまでに希薄なのだ。
 作品展示の形態も示唆的である。当初は、来場者がリストの中から選択した物語を語る形式だったのだが、2010年10月に行われた「ATLAS」展(於 東京芸術大学取手校地)では、封筒に物語の題目がひとつ書かれた紙をランダムに入れて、来場者にその封筒を一枚取ってもらうという形式に変更された。くじ引きやおみくじのように、作家・観客双方がそこで語られる物語の選択を偶然性に委ねることになったのである。
 山間の棚田が見渡せる広大な風景や、セイタカアワダチソウが一面に繁茂する風景といった強く印象に残る場所で、非場所性・非歴史性と選択の偶然性を徹底させた物語が、何らドラマチックな瞬間を迎えることもなく、淡々と業務をこなしていくような冷めた声音で語られる。語りが終わると、来場者は、唐突に宙空に放り投げられたような奇妙な感覚を味わうことになる。この物語は一体何なのか。なぜ語ったのか。物語と作家、物語と場所、場所と作家、それぞれがどのような理由でどのように関連しているのか。思考を巡らせても、きっと答えは出てこないだろう。明確な像を結ばないこと、それ自体が、この物語の成立条件であると言わんばかりに、彼女は言葉を紡いでいく。そう、彼女は多くの口承芸術の語り手と同様に「神話」を語る。ただしそれは「忘却の歴史と希薄さの地理の神話」なのである。


 通常、私たちは、重大な出来事や印象的な出来事についてははっきりと覚えているが、他の記憶の多くは、時が経つに連れて少しずつ風化していき、やがて消え去ってしまう。しかし時々、風化するはずであったにも関わらず、残ってしまう記憶がある。人生に大きな影響を与えたとも思えないし、もっと大事なはずの記憶は次々に薄れて消えていってしまうにも関わらず、なぜだか残っている記憶——。それは、ノスタルジーや後悔の念を思い起こさせるような記憶でもない。いや、元々はそうだったのかもしれないが、もはやその記憶からは、当時持っていた感情や生々しさは感じられない。ある程度まで風化のプロセスが進行し、その記憶に関するあらゆる肉や水分は剥奪されてしまっているが、何か特殊な環境に置かれていたためなのか、粉々になって風化してしまうことはなく、元の輪郭を保ったまま石化してしまった記憶というものが存在するのである。「記憶の化石」とでも言うべきものが。
 「記憶の化石」は、ただそこに在る。なぜそこにあるのか、消えずに残っているのか、納得のいく説明は出来ない。またその記憶の持ち主は、化石に対してどのようなアプローチをすることもできない。なぜなら、それがあることによって、その人は懐かしみを覚えたり楽しい気分になることもなければ、苦痛を感じたり、当時の状況に対して後悔することもないのだから。それは、動植物の化石がそうであるのとじ同様に、ただそこに在って、かつてそのようなものがあったということを思い起こさせるだけのものである。
 そしてそれは、ある特別な意味で、凍てつくような孤独であり悲しみである。そこに何かが在るにもかかわらず、それに対して何も働きかけることができない、触れることができないという孤独。そして、何もすることができないという事実に対して、ほとんど感情が動かないということ、その事実をすでに受け入れてしまっていること、それ自体への悲しみだ。


 忘却の歴史と希薄さの地理の神話と現実を生きること、郊外的環境を生きることとは、明確な記憶が像を結ばず、このような「記憶の化石」だけが無数に遍在する世界を生きることにほかならない。清野は、自分自身がメディアとなり、あたかも巫女が神に対してそうするように、「記憶の化石」を自らに憑依させて、それを鎮めるために物語を紡ぎ出す。まるで、「記憶の化石」に対して行える唯一のことは、埋もれている化石を見つけだし、それを拾い上げて、誰かにただそのまま語ることだとでも言わんばかりに。ぶっきらぼうで事務的な語り口も、おそらく物語に対する無配慮なのではなく、「記憶の化石」を壊してしまうことなく拾い上げ、なるべくそのままのかたちで聞き手に手渡すための配慮であり、また愛情でもあるのだろう。


 「私」が「この私」であること、「いま、ここ」に存在することの自明性が崩れ去り、すべてが偶然であるかのように感覚されてしまう郊外的環境において、それでもなお私たちは、自らに固有の物語を語ることが出来るのだろうか。郊外の病理などと言うまでもなく、現代に生きる誰もが無関係でいられないであろうこのような問いに対して彼女は、化石となり、なぜ覚えているかも定かでないささやかな記憶がそれでもなお自らの内に残り続けているという事実に、僅かながらの希望を抱いているのではないだろうか。