作家紹介(1)視覚的暴力を触覚的に見つめ返す/笹川治子『セキュリティー・システム』『うつろ戦士』

文責:佐々木友輔


 石塚つばさが環境管理型の権力システムに擬態しているとすれば、笹川治子の『セキュリティー・システム』は、現代に特有なもうひとつの権力、つまり規律訓練型の権力システムに擬態して、監視社会の有り様をパロディー化し、その意味を脱臼して見せる(笹川ほど「脱臼」という言葉の似合う作家もそういない)。
 これは、ジャンクのカメラやトランシーバー、あるいは身近なところにある廃材などを用いて、その名の通り監視カメラ(のようなもの)を模倣して、展覧会場の至る所に設置するという作品である。監視カメラにはAからGまで7種類のタイプがあり、それぞれ用いられている素材や形態が異なる。Type Gを除いて実際の録画機能は付いておらず、Type Gにしても、映像が受信されるモニタ画面はノイズ混じりで何が映っているのか分からない。記録装置としての機能はほぼゼロであると言って良い。
 特に印象的なのはType Fで、これは遠目から見ると監視カメラのようなシルエットの物体が、近づいて見ると木の枝をいくつか結束バンドで束ねただけ、というもの。「まるで前衛生け花」(石塚つばさ)のようなこのオブジェは、「監視している」という事実よりも「監視されていると感じさせる」ことによって人の行動を制限するパノプティコン的監視システムの本質を的確に捉えている。また、Type E にはセンサーが内蔵されており、動くものが近くを通ると反応して首を左右に振るのだが、少し考えてみれば分かるように、侵入者を発見してからカメラが首を振り始める動作はまったく意味がない。ワンテンポ遅れて辺りをキョロキョロと見回すような監視カメラの動きは愛らしくすらある。実際の録画機能を持ち合わせていない、あるいはほとんど役に立たない機能しか持たないこの『セキュリティー・システム』たちは、まるでホームセンターで売られているダミーの監視カメラのように、どこか情けなく滑稽だ。


 彼女の作品に付きまとうこの独特の滑稽さは、暴力性や危険性が強調されがちな監視社会の実態をありのままに示しているように見える。内と外を隔てるゲート、常駐する警備員、至る所に設置された監視カメラによって、住民の絶対の安心を謳うゲーテッド・コミュニティ(要塞都市とも呼ばれる)にしても、町開きから年月が経つにつれ、システムの形骸化が進んでいることが報告されている。ゲートやカメラなどの設備が風雨にさらされて劣化したり、メンテナンスが行き届かず壊れたまま放置されたり、それが設置されているという事実そのものが忘れ去られて誰も自分が監視されていることを気にしなくなったり——。どれだけ高度な技術を駆使したセキュリティー・システム、監視システムであっても、その機能を維持し続けることは困難であり、次第に経年劣化してくたびれた姿を晒し始める。
 またそもそも、ゲーテッド・コミュニティが本当に防犯性や安全性を向上させているのか自体に疑問を投げかける者もいる。そこに暮らす住民たちは、防犯性や安全性よりもむしろ、ゲーテッド・コミュニティに住んでいるという事実、つまりステータス・シンボルとしての価値を重視しているのではないかとの指摘もある。笹川はこのようなシステムの二重の形骸化、理想と現実の姿を、7種類のオブジェの内に巧みに埋め込んでいる。


 しかし彼女は、ある権力システムの様態をただなぞるだけではない。floating viewへのもうひとつの出品作『うつろ戦士』は、アニメシリーズ「機動戦士ガンダム」のような巨大ロボットをビニール素材で再現した全長約5メートルのバルーンで、彼女自身が掲げる「身体」と「映像」というテーマに対して最も明快な回答を示してくれている。この作品は、2009年にお台場に建設された実物大のガンダム(以下『お台場ガンダム』)と比較してみると面白いだろう。
 『お台場ガンダム』は全長18メートル、色彩や形態など、オリジナルのガンダムが「忠実に再現」されていることになっている。しかし、そこにはひとつの欺瞞がある。『お台場ガンダム』は、モニタ上で縦横無尽に活躍するガンダムのイメージそのものを再現しているのではなく、正確には、そのガンダムの「公式設定」(サイズや色彩、架空の装甲材の金属的質感など)を再現していると言える。対して笹川の『うつろ戦士』はそのような「設定」を無視して、代わりにモニタの中で蠢く巨大ロボットのイメージそのもの、つまり映像の身体を現実空間上に再現しようとする。ロボットのかたち=フォームではなく、モニタに表示されているロボットのテクスチャを現実空間に変換することを試みるのだ。その結果採用されたのがビニールという素材だったのである。


 『セキュリティー・システム』と同様に、情報(スクリーンやモニタ、設計図や設定)の上では鋭角的にデザインされていたはずのロボットがビニールという何ともくたびれたモノとして現実空間に佇む姿が印象的なこの作品の評価は、素材の特性上必然的にうまれる「ゆるさ」をどのように捉えるかによって大きく変わってくるだろう。この作品に限らず、彼女のこれまでの作品に共通するフォームの「ゆるさ」は、一見大雑把で、作品として未完成なようにも思えるかもしれない。しかし、笹川治子をフォームではなくテクスチャの作家として捉えてみると、まったく別の表情が浮かび上がってくる。
 例えば『うつろ戦士』で笹川は、ブロワー(送風機)でバルーンに空気を送り込んで満タンにした状態から、パーツ毎に少しずつ入れた空気を抜いたり再び加えたりして、よれよれとしたテクスチャを意図的につくり出しており、floating view会期中も頻繁に会場に足を運んで空気量の細やかな調整を行っている。他の作品についても同様で、真新しい素材に汚れをつけたり、段ボールにコーティング材を塗布するなど、様々な方法で、多彩なテクスチャのヴァリエーションが試みられている。笹川はフォーム=視覚的造形物ではなく、テクスチャ=触覚的造形物の作家として、鋭い感性を働かせる作家なのである。


 そう考えると、先ほど取り上げた『セキュリティー・システム』の見え方も変わってくる。『セキュリティー・システム』は、監視カメラを作品化=鑑賞の対象とすることで、「見られる」という暴力を逆に「見つめ返す」ことを意図した作品だと要約出来るだろうが、そこにテクスチャというキーワードを挟み込むと、単純な「見る/見られる」の対立構造では回収出来ない意味が生じてくる。
 彼女はただ「見つめ返す」のではない。触覚的に「見つめ返す」。そこには、視覚的な暴力を触覚的な暴力に変換するプロセスが含まれている。一点から突き刺すように向けられるカメラの眼差し、視覚の暴力に対して、笹川は監視カメラを手でベタベタと触れるように、衣服を着込むように、靴を履き潰すように、煮込み料理をつくるように、包み込み触れ続けることで、対象をくたくたにくたびれさせる。経年劣化を促進させるのだ。
 ここに私たちは、ひとつの権力システムと他のシステムとの衝突、あるいは摩擦を見ることが出来るだろう。他のシステムとは、別種の監視装置であるかもしれないし、人間の身体であるかもしれないし、風土であるかもしれない。すべての土台や基盤となる特権的なレイヤーがあるのではない。別動作をする複数のレイヤーのかさね合わせ=関係性が、ある環境、ある風景を形成するのである。視覚に特化した権力システムである監視カメラも、特権的な立場から他を一方的に「見つめる」ことの出来る存在ではなく、別のレイヤーで駆動するシステムに取り囲まれ「見つめられる」存在であるということ。ある環境、風景の構成要素の一部であるということ。笹川の作品が持つテクスチャ=肌理とは、そうした複数の権力システムのコミュニケーションによって刻まれた痕跡、刻まれた皺なのではないだろうか。